美女と野獣

2000/06/07 松竹試写室
有名な童話をジャン・コクトーがジャン・マレー主演で映画化。
美しい映像には感心するが、話はどうも……。by K. Hattori


 ディズニー・アニメにもなったルプランス・ド・ボーモン夫人の書いた童話を、ジャン・コクトーがジャン・マレー主演で映画化したファンタジー映画。ジャン・マレーは醜い野獣と、ヒロインであるベルの恋人(?)アヴナンの二役を演じている。野獣のメイクには、顔だけで3時間、手には2時間もかかったのだとか……。

 この映画は「作り物」としての映画芸術を強く意識した作品になっている。映画の冒頭には背広姿のジャン・コクトーやジャン・マレーが登場し、「これから有名なおとぎ話の映画を始めます」という断り書きが画面に登場し、映画開始を告げるカチンコが鳴らされる。ほとんどがスタジオの中で撮影された映画は、なかば舞台劇のようでもあり、同時に映画独自の映像美を持つ作品ともなっている。見どころは不気味な調度品に囲まれた野獣の城。暖炉を飾る人間の顔のレリーフが動き出す場面などは、最近の映画『ホーンティング』などを連想させます。この映画でもスローモーション撮影やフィルムの逆回し、二重露光を使った編集による人間の出現や消滅、魔法の鏡に遠く離れた風景が写る場面など、特撮技術を使ったファンタジックな描写が次々に登場し、野獣の周囲にある魔法の空間を、じつに効果的に映像化している。

 この映画が作られた当時に原作がどの程度有名なものなのかは知らないが、映画の中では野獣がベルを愛していることが自明のこととして描かれており、野獣やベルの中にある心境変化は強調されていない。野獣はなぜベルを愛するようになったのか、ベルはなぜ野獣に愛を感じるようになったのか、そのきっかけとなるエピソードや経緯がほとんど見えてこないのだ。野獣を「醜い」と言い切り、頑なに拒み続けたベルがなぜ彼を受け入れるようになったのか。そもそもなぜ野獣は幽閉の身のベルにひざまずき、いきなりベルに結婚を申し込むのか。こうした主人公たちの関係が、僕にはかなり唐突に思える。見ず知らずの男女が巡り会い、最初は戸惑いながらも少しずつ相手の内面に魅力を感じ始めるという話にはなっていない。ラブストーリーとしてはかなり強引だが、そこは「童話だから」という理由で許されるのかも。そもそも童話とは、そうした強引さに満ちているものです。

 野獣の内面にある優しさと凶悪さを、ジャン・マレーがアヴナンとの二役を演じることで表現するという手法が成功しているのかどうかは疑問。「野獣=アヴナン」という二重性は映画の最後で明らかになるのだが、これをどう解釈するべきなのか僕にはちょっとわからない。アヴナンの美しい顔の下にある強欲で驕慢で冷酷な面と、野獣の醜い顔の下にある優しさや弱さを、ひとりの役者を介して対照させるという意図はわかる。でもこの映画の中では、アヴナンと野獣が結局は同じ画面に登場しない。登場させないことにも象徴的な意味があるのかもしれないが、これで二人の男の違いが不明瞭になっているようにも思える。両者を対比させるのなら、ディズニー・アニメのように両者を直接対決させる方がいい。

(原題:La Belle et La Bete)


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