フィオナが恋していた頃

2000/08/02 日本ヘラルド映画試写室
母親の故郷アイルランドで父親の消息を捜そうとする息子。
意欲は感じられるがあまり面白くない映画。by K. Hattori


 シカゴの高校で歴史を教えている主人公は、病気で寝たきりになり喋ることもできない母親フィオナの荷物の中から、古い写真を見つける。それは母親が若い頃に恋人キアレンと撮ったもの。父親を知らない主人公は、自分と同じ名を持つその男こそ、自分の父親だと直感する。主人公は自分のルーツを捜すため、母の故郷アイルランドを訪ねる。彼がそこで知ったのは、母フィオナと父キアレンの悲しい恋の物語だった。俳優のアイダン・クインが主人公の父親キアレン・オデイを演じ、監督と脚本はこれが長編第1作となるポール・クイン、撮影監督は『リービング・ラスヴェガス』のデクラン・クイン。この3人は共同製作総指揮にもそろって名前を連ねているが、同じラストネームから想像できるように彼らは実の兄弟だ。この物語は彼らの母親が幼い頃、故郷アイルランドで聞いた話をもとにしているという。

 アメリカは移民の国で、自分たちの両親や祖父母、曾祖父母の代にまでさかのぼれば、たいがいはどこかの国からの移民になる。現代アメリカ人が母親の故郷を訪ねて自分の出生に至る物語を掘り起こすというこの映画は、移民社会のアメリカでは誰もが「我々の物語」として受け入れられるものなのかもしれない。この映画の原題は『This is my father』だ。父親を知らない子供が、母の故郷で父に出会う物語だ。こうしたルーツ探しは、アメリカ人の郷愁を誘うのです。しかし先祖代々の日本人である我々がこの映画を観て、どの程度物語に共感できるかは疑問だ。『ゴッドファーザー』は移民の話でありながら、それ以上に物語としての面白さを兼ね備えていたから普遍的な傑作となり得た。『フィオナが恋していた頃』には、そうした力強さがないと思う。

 現在の生活にトラブルを抱えた主人公が老人の思い出話を聞くことで元気づけられ、現在のトラブルを克服して行くという物語の形式は、映画の中によくあるパターン。大ヒット作『タイタニック』にもその痕跡があるし、『フライド・グリーン・トマト』という傑作もある。この『フィオナが恋していた頃』という映画でも、シカゴからアイルランドに渡った伯父と甥のふたり組がそれぞれに問題を抱えているらしい。しかし映画の中ではそれが具体的にどんな問題なのか不明確だし、最終的にその問題が解決したのかもわからない。脚本段階で現在と過去が呼応する形がもっと明確になると、現代から過去にさかのぼるという映画の形式が感動を生んだと思う。

 映画の焦点はフィオナとキアレンの悲恋物語にあるのですが、この部分も僕にはちょっと納得できなかった。ふたりの恋を阻むものが何なのか、さっぱりわからないのです。それはキアレンの出自なのか、フィオナの家柄なのか、地域共同体のモラルなのか、フィオナとキアレンの年齢差なのか……。「いろいろあって駄目でした」というのは、理由がないのと同じです。「あら、気の毒ね」とは思ってもらえても、それ以上の共感や同情は得られない。あと一工夫必要な映画だと思います。

(原題:This is my father)


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