映画作りとむらへの道

2000/09/07 シネカノン試写室
小川プロが三里塚から山形へ移る過渡期を記録した映画。
福田克彦監督の封印されたデビュー作。by K. Hattori


 小川プロの助監督だった福田克彦が、小川プロ在籍中の1973年に作った初監督作品。しかしこの映画は小川プロ内部で試写されたあと封印され、世に出ることはなかった。後に『草とり草紙』などの作品でドキュメンタリー作家として確固たる地位を築く福田克彦監督にとって、これは幻のデビュー作。なんといってもキネ旬の「日本映画人名事典・監督篇」に、そのタイトルが載っていない位なのだ。彼のデビュー作として知られているのは、小川プロから独立後の'79年に作った『三里塚には三里塚の農業があり、木の根には木の根の風が吹く』という作品なのだろうと思う。

 この映画は、小川紳介率いる「小川プロ」がどのようにして映画作りを進めているのかを記録した作品だ。成田空港建設反対・三里塚闘争の記録映画で国際的に評価された小川プロは、監督以下の撮影スタッフが取材地域で何年も集団生活し、地域に根を下ろしたところからドキュメンタリー映画を作るという手法を確立していた。この映画が作られたのは、小川プロの三里塚シリーズ第6部『三里塚・辺田部落』の撮影追い込み時期。連日の撮影、撮影後の反省会、ラッシュを観ながらの講評、スタッフ同士で酒を酌み交わしながらのドキュメンタリー映画談義などの風景が、じつに興味深い。小川プロは結局7年間を三里塚の辺田部落で過ごし、'75年には山形県上山市牧野村へと活動の場を移す。『映画作りとむらへの道』はその過渡期を描いている。ラッシュを観ながらその出来映えを講評する小川紳介の表情からは、彼の関心が空港反対闘争という政治的テーマから、農村の中にある濃密な人間関係といったものに移っていることが見えてくるようで面白い。ちょうどこの頃の小川プロについては、田山力哉が「日本の映画作家たち・創作の秘密」の中で小川監督本人にインタビューしている。

 小川紳介は『辺田部落』のあと山形で『クリーンセンター訪問記』を撮り、その後再び三里塚に戻ってシリーズ第7部であり最終作となった『五月の空里のかよい路』を撮りあげると、また山形に戻って二度と三里塚には戻らなかった。福田克彦はその小川プロを離れて'78年に単身三里塚に舞い戻る。そしてそこでコツコツと地味なドキュメンタリー作りを再開する。小川紳介は'92年に55歳で死去。福田克彦は'98年に54歳で死んだ。

 『映画作りとむらへの道』は面白い映画だ。僕は小川プロの映画も小川紳介もまったく知らないが、それでもこの映画は面白い。政治運動と映画製作が密接につながっていた時代から、映画作りが少しずつ自立して行く課程。あるいは成田闘争という直接的な政治ドキュメンタリーを作っていた映画作家が、長年に渡る映画製作の中で別の普遍的テーマを掘り下げて行く課程。そのプロセスは小川監督の三里塚シリーズを観ればわかるのだろうが、この映画はそのテーマ移動プロセスの最も重要な時期を記録しているという点でユニーク。まさに「映画作り」と「むらへの道」を描いた映画なのだ。


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