ルアンの歌

2000/09/14 シネカノン試写室
田舎から都会に出てきた少年とクラブ歌手の交流。
地味で華やかさのない中国映画。by K. Hattori


 自由経済政策によって、農村部から都市に大規模な人口流入が続く'80年代の中国。同郷の兄貴分ガオピンを頼って都会に出てきたトンツーは、毎日天秤棒を担いで荷運びの仕事をしている。日々の稼ぎはごくわずか。ガオピンの部屋に居候していなければ、ひとりで食べていくことすらできないような収入だ。ガオピンはトンツーより多少は羽振りがいい。それでも隙間だらけのあばら屋のような部屋を借りているのだから、金持ちというには程遠い。彼がどんな商売をしているのかトンツーはまったく知らないが、何か危なっかしい世界に片足を突っ込んでいるのは確からしい。ガオピンはチンピラと組んで組織の金をだまし取る計画を立てるが、逆にチンピラに裏切られてすべてをなくしてしまう。ガオピンはクラブの歌手ルアンホンからチンピラの居所を聞き出すため、彼女を誘拐して自分の女にしてしまう。だが彼女は、地元で恐れられているヤクザ組織のボスの情婦だった。

 純朴な少年が犯罪組織と関わりのある女にほのかな思いを抱くという、『ビリー・バスゲイト』や『上海ルージュ』などと同傾向の映画。しかしこの映画では、すべてが貧乏くさい。この貧乏くささはリアリズムなのだが、そこには何の夢も希望もない。主人公トンツーの兄貴分はヤクザ組織やチンピラをバカにして粋がっているが、いざとなればヤクザを恐れて逃げ回る根性なしだ。住んでいる部屋も、雨風が防げるだけの掘っ建て小屋。ヒロインのルアンホンにも、ニコール・キッドマンやコン・リーのようなゴージャス感など微塵もない。地方から出てきた小娘が、悪い男に引っかかって慰み者になっているだけのちんけなメロドラマ。トンツーが恐れるヤクザも、そんなルアンホンを情婦にしているのだもの、チンピラに毛が生えた程度の小物に決まっている。

 監督のワン・シャオシュアイは中国政府の検閲を通すため、多くの面で妥協を強いられたという。ヒロインはもともと売春婦という設定だったのを、歌手に変更させられたらしい。監督は『政府からは、人生がどんなに美しいかを見せることを期待されているけれど、我々の多くは人生の悲しさを映画にしたいのです』と述べている。この映画の貧乏くささは、監督が最初から意図したものなのだ。ガオピンは小さな野心によって身を滅ぼし、ヤクザのボスはせこい意地を張ったことで捕らえられ、ルアンホンは行き場を失い、主人公のトンツーは都市の片隅でひっそりと生きていくしかない。

 この映画の中では、トンツーとガオピンとヤクザのボスが全員同じ田舎から出てきた同郷人という設定だ。彼らは同郷人同士の小さな社会の中で金を奪い合い、命のやり取りをする。彼らには帰る故郷などすでに失われているのに、それでも同郷人同士が群れている。これが中国人の民族性なのかもしれない。最後に生き残るトンツーとルアンホンは、共に故郷から完全に切り離された都市住民となることで、命を長らえたのかもしれない。でもそこにあるのは、言いようのない孤独なのだ。

(英題:So Close To Paradise)


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