刺青
(いれずみ)

2000/09/22 徳間ホール
谷崎潤一郎の小説を増村保造が映画化した代表作。
ヒロインの太々しさをもっと徹底してほしい。by K. Hattori


 谷崎潤一郎の原作を新藤兼人が脚色し、増村保造が監督した昭和41年の作品。主演は若尾文子。気の強い質屋の娘が若い手代と駆け落ちするが、身を寄せた船宿主人にだまされて女郎屋に売り飛ばされ、そこで背中に女郎蜘蛛の刺青を彫られる。女は殺され損なったかつての恋人と再会し、自分たちを地獄に落とした男たちに復讐する……。話としての流れはそんなものだが、この映画におけるヒロインの魅力は、彼女の中に復讐に対する明確な思いが感じられず、いわば場当たり的に、その場その場の気分で次々に殺人を犯すところだ。しかも彼女は自ら手を汚すことはない。男たちをそそのかし、甘い言葉で操って、凄惨な人殺しを行わせるのだ。

 普通の映画は殺人シーンをさらりと流してしまうのが常だが、この映画はこの当時流行していた残酷時代劇の影響を受けてか、やけにリアルな殺人シーンを見せる。夜道に連れ出された手代が、自分を殺そうとするやくざ者を逆に刺し殺してしまう場面。美人局にひっかけられた旗本が、逆上して相手のやくざを斬りつける場面。命からがら旗本の寮を逃がれたやくざは、血糊の中でのたうち回りながら撲殺される。土壇場の窮地に立たされても、何とか逃げ延びて命をつなごうとする人間の浅ましいまでの執念。殴られても突かれても、人間はなかなか死なない。断末魔の悲鳴を上げながら、一分の生を求めてのたうち、逃げ回り、相手にすがりつく。その凄惨さ。まるでスプラッター映画さながらなのだ。

 気の強い女を腕ずくで屈服させ、ヒーヒー悲鳴を上げさせたいという男たちの欲望。女が強ければ強いほど、それが屈服させたときの喜びは大きい。一種のサディズムだ。しかしこの映画のヒロインは、そう易々と相手には屈服しない。良家の子女という身分から最低の女郎に身をやつしても、周囲の男たちの生き血を吸ってしたたかに生き延びる。それは彼女にとっての生存本能だ。物語の展開上、彼女は自分を不幸にした男たちを次々と血祭りに上げて復讐を果たす。だが彼女はそもそも、復讐のために何かをしたわけではあるまい。彼女の生き血を吸おうと彼女の周囲に男たちが群がるから、彼女は手近な餌としてそれを手当たり次第に食い散らしだけだ。

 今から30年以上前の映画だが、若尾文子演じるヒロインの設定には現代に通じるものがあると思う。むしろ現代の観客の方が、気が強く男たちを食い物にして生き延びようとするこのヒロインに共感できるのではないだろうか。僕も断然、このヒロインを応援する。だがそれだけに、この物語がやけに分別くさい終わり方をするのが気にくわない。彼女は背中の刺青を免罪符に、もっともっと男たちを破滅させて、さらに光り輝くべきなのだ。彼女の血塗られた生き方が、結局は彼女本人を不幸にした男たちの半径で収まっているのが面白くない。地獄の亡者どもの生き血をすすり、たっぷりと肥え太って妖しい美しさを帯びて行く女郎蜘蛛の姿を、もっと見せてほしいと思う観客は僕だけではないはずだ。再映画化希望。


ホームページ
ホームページへ