ヘッド・オン!

2000/10/10 シネカノン試写室
オーストラリアのギリシア系ゲイ青年は何を求める?
青春の悩みは万国共通らしい。by K. Hattori


 19歳のゲイ青年を主人公にした、オーストラリアのインディーズ映画。一昨年のカンヌ映画祭監督週間に出品され、今年の東京国際レズビアン&ゲイ映画祭でも上映された作品。主人公がゲイなので“ゲイムービー”という言葉で語られてしまうような気もするが、映画の中にはセクシャリティの問題に限らず、この世代の青年が誰しも抱える多種多様な問題が詰め込まれている。ちょっと消化不良を起こしかけているのではないかと思うほど盛り込まれている要素が多いのだが、個々のエピソードを明快に仕上げることで、映画のテーマはすっきりとわかりやすく仕上がっている。

 オーストラリアはかつて「白豪主義」を掲げて有色人種排斥政策をとっていたが、'70年代以降は積極的に世界各国からの移民を受け入れ、多文化主義(マルチカルチュアリズム)の国へと変貌していった。アメリカ型の「人種のるつぼ」が“アメリカニズム”というフィクションによって移民たちの精神を染め上げて行くのとは異なり、多文化主義の国では各民族がそれぞれの民族的独自性を保ちながら、全体がサラダボウルの中の食材のようにひとつになることが理想とされているらしい。この映画の主人公は、ギリシア系移民の子供だ。ギリシアからの移民たちは彼らだけで小さなコミュニティを作り、それぞれの家庭を中心とする濃厚な人間関係を作っている。この映画の中心になるのも、主人公の家庭だ。

 この映画は、主人公アーリのどこにも身の置き所がない状態を丹念に描いていく。ここで描かれるのは、彼が周囲のあらゆる物に対して抱く愛憎入り混じった感情だ。アーリは父親を愛しながらも憎み、両親と同居する実家での生活に居心地の良さを感じながらも一刻も早く家から出ていきたいと願い、ゲイである自分を自覚しながらも誰かを愛することができず、オカマの友人と親しくしながらも彼のことを恥じている。いい子でいたい自分と、周囲の期待を裏切って反逆したい自分。ギリシア人であることを厭う自分と、ギリシア人であることに誇りを感じる自分。ゲイとして同性とのセックスを楽しむ自分と、そんな自分に憎しみさえ感じる自分。今ある自分から逃れたい自分と、どこかに落ち着いてしまいたい自分。すべての感情は矛盾し、アーリの中でせめぎ合う。こうした矛盾は、青年期を迎えれば誰しもが心の中に持つものではないだろうか。この映画は主人公のゲイとしての生活が物語の中心になっており、そのエピソードについて僕は正直言ってピンと来なかった。でもどのエピソードにも付きまとう、憧憬と反発という感情は、おそらく映画を観る人の誰にも心当たりのあるものだと思う。

 父親を憎み、殺意に近い感情さえ持っていたアーリが、妹とその恋人に対して、父親と同じような態度をとってしまう不気味さ。誰かに愛されたいと願いながら、いざ愛してくれる相手と巡り会っても独りよがりなセックスだけを求めて相手に拒絶されてしまう情けなさ。青春というのは、なんとも不器用でみっともないものです。

(原題:HEAD ON)


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