陽炎座

2000/11/14 イマジカ第1試写室
鈴木清順監督が泉鏡花の世界を映画化したらこうなった。
夜見る夢をそのまま映画化したような雰囲気。by K. Hattori


 泉鏡花の原作を、昭和56年に鈴木清順監督が映画化した作品。鈴木監督が前年に撮った『ツィゴイネルワイゼン』と同じ、製作荒戸源次郎、脚本田中陽造という布陣。他にも撮影・照明・音楽などのスタッフが同じだ。出演者もかなり重なり合っている。ただし主演は藤田敏八から松田優作に交代。松田優作が演じている新派の劇作家・松崎と、楠田枝里子が演じる金髪の女オイネの存在が、映画全体から浮き上がって一対に見えるところが、この映画の狙いだろう。物語の舞台は大正末年の1926年なのだが、風景の中に何となく馴染んでしまう中村嘉葎雄や大楠道代、原田芳雄、大友柳太朗などに比べると、松田優作と楠田枝里子は違和感ありすぎ。映画の冒頭、道にかがみ込んで落とした手紙を捜す松崎の姿が、いきなり後ろ向きのお尻から始まるというのもかなり奇妙。この時点で既に、松田優作はヘンなのだ。この映画の中で一番ヘンな人が、この映画の主人公であり、観客が感情移入すべき対象になっている不思議さ。

 世界にドップリとつかりながらも、その世界全体から自分が拒絶されているような感覚が、『陽炎座』という映画全体を覆っている。離人症的な感覚というより、これは眠っているときに見る夢に近い。場面の所々がいびつに強調され、場面と場面が連想や思いつきだけで連結されていくような強引さ。この映画の中では、我々の暮らす世界とはまったく別の時間が流れている。これは映画の導入部で、突然道の真ん中に中村嘉葎雄が現れるシーンでも明らかだ。回想シーンと現実の今この時が、継ぎ目なしにつながり、それがまた別の場面へと継ぎ目なしに流れていく。人物がどこから現れ、どこに消えていくのか誰も気にしない。突拍子もないことが起きても、誰も大げさに驚かない。なぜならそれは夢だから。

 口から取り出された、半分溶けかかったような真っ赤なホオズキ。死んだ女との邂逅。夜の川を船頭もなしで猛スピードで滑って行く小舟に、金髪の女。女装した髭の男。客がいないのに踊り続ける芸者たち。大きなたらいを水に浮かべ、心中の準備をする女。クルクルと水面を回り続ける小舟。どこからともなく聞こえてくる、調子外れの祭囃子。子供の芝居。残酷な屏風絵。どれもこれもかなり現実離れしたイメージばかりなのだが、それらはこの映画の中できちんと調和して、シュールレアリスティックな宇宙を作り出している。そこに異物として放り込まれているのが、主人公の松崎だ。彼はそのシュールな世界に同化するか、そこからはじき出されてしまうかの、二者択一しか残されていない。

 大楠道代は前作『ツィゴイネルワイゼン』から連続しての出演だが、この映画の彼女はじつに気品があって美しい。楠田枝里子はロボットだのアンドロイドだのからかわれることが多かったが、この映画の中ではその人間離れした雰囲気がうまく使われている。大友柳太朗と原田芳雄が人形の見せっこをする場面の不気味さと面白さは、ちょっと口では言い表せない。ヘンな映画です。


ホームページ
ホームページへ