回路

2000/11/21 東宝第1試写室
黒沢清の最新作。インターネットから幽霊が現れる?
わけがわからないけど、やたらと恐い。by K. Hattori


 黒沢清の新作。大映製作で東宝配給。製作総指揮は徳間康快。黒沢監督は大映で何本も優れた映画を撮っているが、徳間社長亡き後、大映がどう変わっていくかはちょっと気になるところだ。肝心の映画の方なのだが、これがほとんど『CURE 2』みたいな雰囲気で、かなり恐い。1時間58分のうち、特に恐いのが序盤から中盤までの1時間半ぐらい。登場人物たちの周囲で、何かわけのわからない事件が起きているという事実と、これからも何か起きるであろうという濃厚な雰囲気にぞくぞくしてくる。謎のインターネットサイト、携帯電話、赤いテープで封印された開かずの間など、謎めいたアイテムが次々に登場しつつ、それらがどんな意味を持っているのかさっぱりわからない恐さ。たぶん「これはこんな意味です」と解説されてしまうと、何も面白くなくなってしまうんだと思う。何も説明されず、ただそこにそのような現象があるという事実が、観る者を戦慄させる。

 話そのものはよくわからない。結論部分に至っても、僕は何が何だかさっぱりわからなかった。麻生久美子が中心になって進行する園芸業者で働く青年たちの話と、加藤晴彦が演じる大学生を中心とした話が、いつまでたっても別々に動いて交差しないという構成も不思議といえば不思議。でもこのバラバラ具合が、特にこの映画の欠点にはなっていないような気がするのも不思議。共通するのはパソコンやインターネット、携帯電話といった小道具と、映画全体を支配するどす黒いトーンのみ。

 映画全体の世界観については武田真治が仮説を述べているけれど、これが本当かどうかはまるでわからない。登場する幽霊や亡者たちも、彼らが何者なのか何も語ろうとしない。消えていく人間たちも、「助けて」と叫ぶだけで、何からどうやって助けてほしいのか明らかにならない。すべてが不合理で間尺に合わないのだ。この不条理感はここ何年かの黒沢映画によくあったものだが、この映画ではそれがより先鋭化されている。例えば『カリスマ』のわからなさは、おそらく作り手の中にある複雑な思いが結晶化した結果なのだろう。観客はそれを解読できなかったとしても、その向こう側に何らかの主張やメッセージを期待できる。でも『回路』のわからなさは、どこまで行ってもすべてわからない。これが恐い。

 この映画で僕が思わず震え上がったのは2ヶ所。ひとつは開かずの間の暗闇からにじみ出すように幽霊が現れ、ゆっくりとカメラに向かって歩いてくるシーン。このゆらゆらした歩き方がまず恐い上に、この幽霊、途中でよろけるんです。それまで機械的にまっすぐ歩いてきた幽霊が、がっくりと足を折って転びそうになり、踏ん張って立ち上がってまた歩いてくる。なぜ幽霊なのによろけるんだよ〜。この瞬間に、理性は吹き飛びます。理解を超えた存在に出会ってしまった恐怖。もうひとつ恐かったのは、女性が投身自殺するシーンをワンカットでとらえたところ。トリック撮影だとわかっていても、これは衝撃的でした。トラウマになりそうです。


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