アリックスの写真

2001/01/24 TCC試写室
もっともらしく解説されると、本来ないものまでそれらしく見えてくる。
ジャン・ユスターシュ監督晩年の短編作品。by K. Hattori


 1981年に43歳でピストル自殺したジャン・ユスターシュ監督が、死の前年に製作した18分間の短編映画。中年の女性と若い男が、大量の写真を前にして話をしている様子を、延々描写しているだけの作品だ。女性は写真家で、若い男は彼女の作品を前に、作品ごとのテーマや狙い、撮影にまつわるエピソードなどを聞いているらしい。ふたりの関係はどんなものなのか、映画を観る者にはまったく明らかにされない。ふたりの距離は常に一定で、男性の問いかけも女性の解説も淡々と続く。突然ふたりが抱き合うとか、殴り合うという劇的な展開もない。語り合うふたり。写真の話題。写真の大写し。それを解説する女性。自分なりの感想を語る男性。写真は次々に新しいものが現れ、女性はその1枚ずつについて丁寧に解説していく。ただそれだけなんだけど……。

 この映画の面白さは、女性の解説と画面に登場する写真の関係が、少しずつずれていくところにある。例えば最初はAという写真についてAの写真についての解説をしていたのが、次はBという写真についてB’の解説になり、次いでCという写真についてそれとはまったく無関係なDという作品の解説になり、最後はEという写真についてAという写真の解説が再び語られるという構成。このずれは編集によるものではなく、あらかじめ脚本上で入念に計画されたものだ。登場するふたりの役者も、かなり綿密なリハーサルの上でこの「ずれ」を演じているらしい。言葉で語られている対象が写真の上に存在しなくても、女性カメラマンはその写真を指さしながら、そこに写し出されている(実際には存在しない)肉体や人物や光線について語るのだ。そしてその話を聞いている男性側も、彼女の話を受ける形で、存在しない肉体や人物や光線について自分の感想を述べている。

 こうしたずれに、観客は最初気が付かない。この映画の主人公ふたりの会話と動作に惑わされて、映画の中に登場する写真の中には会話の対象となる被写体が必ず写っているはずだと信じている。真っ白な写真を指さして「ここにある肉体は私自身よ」と語るふたりを観て、何もない真っ白な写真の中に幻の肉体を探し求める。自分の目が悪いのか、映写機が悪いのか、フィルム感度の問題かは知らないが、きっとその白地には彼女の肉体が写っていると信じているから、なんとなくそこに薄ぼんやりとした像があるような気がしてくる。「そうか、あの写真にはやはり何も写っていなかったのだ」と気が付くのは、映画がだいぶ進行してからだ。

 人間はそのつもりになっていると、実際には存在しないものまで存在するかのように思い込む。我々はテレビや新聞でもっともらしく語られている事柄についても、ひょっとしたらこの映画の写真解説を聞いているときと同じように反応しているのかもしれない。何も実態がなくても、説明さえもっともらしければ人はそれを信じ込む。これは観客を「裸の王様」の馬鹿な大人たちにしてしまう、かなり意地悪で挑発的な映画なのだ。

(原題:Les photos d'Alix)

2001年3月24日公開予定 ユーロスペース
配給・宣伝:ユーロスペース


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