ジャン・コクトー、
知られざる男の自画像

2001/03/14 シネカノン試写室
ジャン・コクトー本人のインタビューで構成されたコクトーの世界。
コクトーの没後20年を記念して作られた作品。by K. Hattori


 3月末から東急Bunkamuraザ・ミュージアムで開催される「ジャン・コクトー展/美しい男たち」の関連企画として、ユーロスペースで上映されるジャン・コクトー関係のドキュメンタリー映画。コクトーの没後20年にあたる'83年にフランスで製作されてテレビ放映され、日本では'86年と'95年に劇場公開されているらしい。中身はコクトーの生い立ちや作品の紹介、生前に撮影された本人の映像などを集めた人物ドキュメントだが、この映画がユニークなのは、ナレーションのすべてをコクトー本人が行っていること。生前に撮影されたインタビューと録音テープを巧みにつなぎ合わせ、すべて本人に自分自身の人生や芸術について語らせているのです。

 普通の人物ドキュメンタリーでは、本人のコメントに合わせて周囲の別の人物にもコメントを求めたりするものだが、この映画にはそうした要素が一切ない。すべてがコクトーのひとり語り。だから当然ここには、コクトーが語りたくなかった事柄や、伏せておきたいと考えた事実は入り込まない。観客がいくら「ところでジャン・マレーとの関係はどうだったんだ?」と思っても、それについてコクトーは一言半句たりとも語らない。でもそれがいいのです。人間は語ることと同じくらい、沈黙によってその人自身を表現するものです。コクトーはラディゲについては語ることができる。でもマレーについては語れない。それが何よりも雄弁に、コクトーとマレーの関係について語っているような気がする。

 映画の後半ではコクトー自身が芸術家の死について語り、映画の中で彼自身が演じる死や再生の場面が何度も登場するため、まるで彼自身が自分の死について語っているかのように見える。あの世に行ったコクトーが、自分自身の死を回想しているかのような語り口なのだ。このあたりは編集の妙技だと思う。それにしても、コクトーという人はよくもまぁこれだけ膨大なインタビューを残していたものだと思う。そもそもが出たがりで喋りたがりだったのでしょう。でないとこれだけ大量の映像が残ることはないと思う。

 映画の序盤で語られる、20世紀初頭のパリの風景。バレエ・リュスを率いていたディアギレフを筆頭に、ニジンスキー、サティ、シャネル、ピカソ、ストラビンスキーなど、名前を聞いているだけで思わずうなってしまうような顔ぶれがぞろぞろ登場する。どれも20世紀の芸術や文化の方向性を決めてしまった人たちばかり。華やかというより、これはかなり濃い世界です。コクトーはこうした世界を見てきた生き証人として、「ディアギレフはいつも金がなかった」とか「ニジンスキーはディアギレフにカメラを質入れされて怒っていた」などと語るんだから、このあたりの人名を多少知っているとそれが面白くって仕方がない。「春の祭典」の初演が大非難を浴びた事件はどんな本にも書いてあるけれど、それをコクトーの口から聞かされるとまた格別。ピカソやサティと作った「パラード」の話も面白かった。

(原題:Jean Cocteau: Autoportrait d'un Inconnu)

2001年4月7日公開予定 ユーロスペース(レイト)
配給・問い合わせ:ケイブルホーグ
ホームページ:http://www.cablehogue.co.jp


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