乱れ雲

2001/05/12 フィルムセンター(小ホール)
交通事故で未亡人となった女性と加害者青年の禁じられた愛。
司葉子と加山雄三が主演した成瀬巳喜男監督の遺作。 by K. Hattori


 昭和42年に作られた成瀬巳喜男監督の遺作。外交官の夫と数日後のアメリカ行きを控えた司葉子のもとに、箱根に出張中だった夫が交通事故死したという知らせが届く。事故を起こした車を運転していたのは、商事会社の若い社員をしている加山雄三。彼はこの事故によって法的な責任は問われなかったものの、外務省と商事会社という微妙な関係もあって、責任をとらされるように青森の出張所に左遷されてしまう。幸せの頂点から一夜にして未亡人となってしまったヒロインは、愛する夫を失い、官舎からも追い出され、遺族年金も夫の家族に奪われ、妊娠中だった赤ん坊も中絶せざるを得なくなる。事故のせいですべてを無くしてしまったのだ。そんな彼女のもとに、毎月慰謝料としてなにがしかの金を届けてくる加山雄三。義姉の経営する旅館を手伝うため故郷の十和田に帰ったヒロインは、そこで夫を殺した加山雄三と偶然再会して大きく心を揺り動かされる。

 幸せの絶頂から不幸のどん底へとヒロインが落ちて行き、そこで愛してはならない人と愛し合うというメロドラマ。矢継ぎ早に襲ってくる不幸と、偶然と呼ぶにはあまりにも偶然すぎる出会いや再会の繰り返しは、「これぞメロドラマ!」という感じ。しかし個々のシークエンスでしっかり芝居が演出されているので、あまり強引さやご都合主義の匂いはしない。俳優の台詞ではなく、動作や象徴的なエピソードを通して状況や心理状態を説明することが多いため、観客が映画からドラマを読み解いていく面白さがある。こうして観客自身に映画を読み込ませ、分析させ、悟らせるという作劇手法は、最近の映画からはすっかり姿を消してしまったように思う。この映画が30秒かけて観客に「なるほど」と思わせるのと同じことを、今の映画作家は3秒で観客に説明したがるような気がするのです。それが現代の映画のテンポになってしまっている。例えば加山雄三の下宿を恋人の浜美枝が訪ねるシーンで、彼に別れ話を持ちかけながら、彼女が部屋のカーテンを閉める描写がある。今の映画ならこんな場面でこんな回りくどい描写はせず、女性に直接「抱いて」と言わせるでしょう。でもそうしてしまうと、言葉と感情が裏腹なこの場面の情感が出てこない。

 急に熱を出して寝込んだ加山雄三を、司葉子が一晩中看病する場面の嵐と停電など、登場人物の心理状態を言葉や芝居ではなく、周囲の出来事で象徴的に表現している場面。しかしこの手法は、クライマックスに至ると「これはやりすぎ!」というレベルになる。踏切と長い貨物列車。事故を起こした車。救急車のサイレン。こうした出来事が、主人公たちの逢瀬を妨げるサインとして次々と映画に盛り込まれていく。これは一歩間違えるとコントになってしまう。もちろんその前からの流れがあるので、これはそのギリギリ手前で踏みとどまるけれど。

 歯切れの悪い幕切れのようにも思うけれど、人間は過去の出来事をそうそう簡単には割り切ったりできない。安易なハッピーエンドは、かえって映画を嘘にします。

第70回監名会
主催:特別非営利活動法人・日本映画映像文化振興センター
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