696 TRAVELING HIGH

2001/06/26 映画美学校第2試写室
川村カオリがオーガナイズする696の全国ツアーを記録。
これが696なりのロックンロールなのだ。by K. Hattori

 川村カオリと坂田カヨがオーガナイズするロック・イベント“696”の全国ツアーを、出演者たちの視線から記録したドキュメンタリー映画。監督は川村カオリ本人。僕自身は川村カオリの名前を聞いても「ああ、ずいぶん昔にJALのCFに出てた人ね」ぐらいの印象しかないのだけれど、何でも一部では“ロック少女のカリスマ”として大層な人気があるらしい。彼女自身は自分のバンドSORROWで音楽活動をしていて、それは696とはまた別口。696のイベントに、ゲストとしてSORROWが出演することはあるみたい。この映画は「ロックとは何か?」という、きわめて根元的な問いかけから始まる。たぶんこの問いが、この映画のテーマになっているのだろう。そしてそれは多分、この映画を作った川村カオリ本人の自分自身への問いかけでもあるはず。イベントに集まった観客たちが、自分自身にとってのロックを語る。696の参加メンバーたちが、彼ら自身にとってのロックを語る。「ロックとは何か?」、それがこの映画の主要モチーフだ。

 この映画は録音が悪いせいか、登場する人たちの台詞が画面にテロップとして表示される。テレビのバラエティ番組によくある手法だけれど、この映画ではその手法が「言葉」を強調することはなく、むしろ言葉の意味や重みをうち消しているように感じる。人間の口から発せられた言葉は、テロップの存在によってそれ自体が存在する意味を失ってしまう。テロップだけで伝えられる言葉はいかにも虚しい。作り手がどの程度こうした効果を意識していたかは知らないが、この映画ではこうした「言葉の虚しさ」がむしろ映画のテーマの本質を象徴的に表しているようにも思える。「ロックとは何か?」それはメッセージなのか? 社会に対する反抗なのか? 日常に対する抗議声明なのか? たぶんそんなものに意味はない。ロックはロックでしかない。言葉は無用だ。ただビートに合わせて体を動かし続ける。気の向くまま足の向くまま、東へ西へと自由自在に移動し続ける。それがこの映画で描かれている「ロック」なのではないか。

 例えばDJをしている中村達也が客席に向かって叫ぶ言葉は、支離滅裂でまったくはちゃめちゃなものだったりする。でもそこで言葉を発している彼の気分や気持ちは、観客にダイレクトに伝わっていく。伝わっているのは言葉が内包する意味ではないのだ。坂田カヨは「言いたいことなんて何もない。でも伝えたいことはあるかもしれない」と告白する。言いたいこととは言葉のことであり、伝えたいこととはメッセージのこと。ここでは「言葉=メッセージ」という関係性が、完全に破綻している。ごちゃごちゃ理屈を並べてもまったく無意味。言葉は全部嘘っぱちなのだから。でも彼らの生き方には嘘がない。それが彼らなりのロックンロールなのだ。

 映画としてのまとまりは悪い。でもこのぎくしゃくした雰囲気が、ここに登場する人たちの精一杯の誠実さのようにも思えてくるから不思議だ。熱い映画です。

2001年7月28日公開予定 シネ・アミューズ(レイト)
配給:スローラーナー

ホームページ:http://www.696officialgate.com/



ホームページ
ホームページへ