スプリングー春へ

2001/11/06 シネカノン試写室
アボルファズル・ジャリリ監督がイラン・イラク戦争時代に撮った作品。
戦争で家族と引き離された少年の苦しみを描く。by K. Hattori

 『7本のキャンドル』『ダンス・オブ・ダスト』など多くの作品が日本でも公開されているイランの映画監督アボルファズル・ジャリリが、1985年に作った長編第2作。1980年に始まったイラン・イラク戦争はこの時期膠着状態に入り、一進一退の攻防が繰り広げられていた。爆撃で家を焼かれた少年ハメドは家族と離れ、たったひとりで森に住む老人の世話を受けることになる。都会で何度も爆撃の恐怖にさらされた少年は、ラジオの戦況報告にびくびくと驚き、爆撃の悪夢にさいなまれる。流行の言葉で言えば、これはPTSD(心的外傷後のストレス障害)だろう。戦争が刷り込んだ恐怖心、家族と離ればなれになった辛さ、見ず知らずの土地で赤の他人に囲まれて暮らすことで生じるホームシック。それらがハメドを苦しめるが、幼い彼はそれに耐えるしかない。

 イランというと乾燥した砂漠のような風土を連想するし、実際にそうした土地も多いのだろうが、この映画に登場するのはジメジメと湿った森林地帯。イランの国土面積は日本の4倍以上だから、ひとつの国の中にいろんな風土があるし、いろんな民族風習が混在している。この映画に登場するのは、イラン北方のカスピ海に近い地域だという。いかにも寒そうな森の中を、みぞれ混じりの雨に雨に打たれ、ぬかるんだ土や水たまりを踏みしめながら歩くシナとハメドの姿は、まるでロシア映画に登場する森の民のようだった。実際イランの北方は旧ソ連邦にすぐ接しているわけだけれど……。

 ほとんどロケ撮影であることもあって、台詞はすべてアフレコらしい。老人の声はともかくとして、少年の声は明らかに女優がアフレコしている。少年のエキゾチックな顔立ちはウィノナ・ライダーやアンジェリーナ・ジョリーのそれを連想させ、そこに女優の声がかぶさることで妙に艶っぽくなる。少年がメソメソ泣いているシーンなどに同性愛チックな、あるいはお稚児さん趣味的なニュアンスが漂ってしまっているのは、おそらく監督のまったく意図していなかったことに違いない。

 説明的な描写を極端に切りつめた『ダンス・オブ・ダスト』などの作品に比べると、この映画はきわめて饒舌でわかりやすい普通の映画になっている。物語の中にカットバックを割り込ませていく部分で、それが少年の回想なのか、幻想なのか、老人の回想なのか、あるいは幻想なのかがわかりにくいところもあるが、これはむしろ意図的なものだろう。少年にとって爆撃の恐怖は生々しい現実なのだから、何やら霧がもやもやと立ちこめて、声にエコーがかかるような幻想シーンにする必要はない。この映画の中では現実と悪夢が平行関係にある。

 この映画は戦争に苦しめられる少年の姿をリアルに描いているが、決して反戦映画ではない。戦争は罪もない人々の命を奪い、家族を引き離す。戦争は嫌なものだ。しかし「戦争は嫌だ」と言うだけでは戦争は終わらない。戦争を終わらせるには武器を取って敵と戦い、勝利しなければならないのだ。それが現実というものだろう。

(英題:BAHAR)

2001年12月26日公開予定 三百人劇場
配給:ビターズ・エンド

(上映時間:1時間26分)

ホームページ:http://www.bitters.co.jp/

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