過去のない男

2002/11/06 映画美学校第1試写室
カンヌでグランプリを受賞したアキ・カウリスマキ監督作品。
記憶喪失の男が周囲の人々を変えていく。by K. Hattori

 フィンランドの映画監督アキ・カウリスマキの最新作。本作は今年のカンヌ映画祭でグランプリと主演女優賞をダブル受賞しているのだが、そんな肩書きを抜きにしても十分に面白く観られる作品だ。物語の舞台はヘルシンキ。夜汽車でこの町にたどり着いたひとりの中年男は、荷物を抱えて公演で一休みしているところを突然暴漢に襲われ身ぐるみ剥がれてしまう。九死に一生を得た男だったが、彼は自分が何者なのかという記憶を失っていた。

 物語はこの男とその周囲にいる個性的で憎めない人々の姿を通して、人間が暮らす世界の温かさを描くコメディだ。こうした話の場合、普通なら「男の正体は何者か?」「男の記憶はいつ戻るのか?」というミステリーで物語を引っ張ろうとする脚本になるのが常だろうが、この映画はそうした方向にはまったく進んでいかないというのがユニーク。主人公は過去のない男であり、名前のない男であり、その人生に何の裏打ちもない男だ。だが男はその自分を丸ごと受け入れて日々を生き、周囲の人々も男の氏素性にまったくこだわることなく、今その時に目の前にいるひとりの男として彼と付き合うのだ。

 映画に出てくるのは、コンテナに暮らす貧しい人々や、そんな人々の世話をする救世軍の人たちなど、決して社会的に恵まれているとは言えない人々だ。むしろ社会から見捨てられ、忘れられている人々といってもいい。そこには日常のしがらみがあるだろう。生活の労苦があるだろう。だがそんな中に飛び込んだ主人公の男は、過去を持たぬがゆえにまったくの自由人として振る舞うことができる。何も持っていないこの男は、何も持っていないからこそ何も失う恐さがない。どこにでも自由に出かけ、自由にものを言い、自由に行動できる。

 やがてこの男の周囲で、貧しい生活の中でよどんでいた人々の暮らしが、少しずつ変わっていくのだ。過去のない男は後ろ向きに生きることなどあり得ない。彼の前には未来しかないからだ。いわばこの世に生まれたての赤ん坊みたいなもの。彼の前にはどんな可能性でも開けている。希望に満ちている。自分が何者でもないということは、裏返せば何者にでもなれるという可能性を内に秘めているということだ。隠されている可能性、隠された才能が、ある日何かのきっかけでふと目覚め花開くことがあるかもしれないではないか! 映画の最後に男は自分の過去と向き合うことになる。だがそこで男は過去を見るのではなく、やはり未来に向かって歩き始めるのだ。
 
 前作『白い花びら』がモノクロのサイレント(パートトーキー)映画だった反動からか、今回の映画は色彩も豊かで台詞も多い。だが決してそれらが説明的になっていないところが、この映画の素晴らしさだと思う。貧しい人々を描いた映画だが、決して貧乏くさくはない。むしろ非常にリッチな気持ちを味わうことができる映画だと思う。

(原題:Mies vailla menneisyytta/英題:The man without a past)

2003年早春公開予定 ユーロスペース
配給・宣伝:ユーロスペース
(2002年|1時間37分|フィンランド)
ホームページ:http://www.eurospace.co.jp/
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