草迷宮

2003/10/16 映画美学校第2試写室
泉鏡花の小説を寺山修司が脚色・監督したファンタジー映画。
映画に漂うアングラ演劇のニオイが少々カビくさい。by K. Hattori


 フランスの映画プロデューサー、ピエール・ブロンベルジェの呼びかけに応え、寺山修司が泉鏡花の同名小説を映画化した短編映画。もともとはオムニバス映画の中の1本として企画・完成した作品だが、他の監督が作った作品の評判があまり芳しくなかったことから、世界各地でこの『草迷宮』だけが独立して上映されることが多かったという。日本では当時東映が日本での配給権を買ったものの、内容があまりにも前衛的すぎるということで興業に難色を示し、長らくお蔵入りになっていたという。初公開は映画完成から5年後、寺山修司が亡くなった1983年のことだった。

 幼い頃に母から聞いた手毬歌の歌詞を探し求め、あてのない旅をする青年の物語だ。歌を探し回る青年(演じているのは若松武)の少年時代を、この映画がデビュー作となる当時15歳の三上博史が演じているのがミソ。このふたりの存在によって映画は「現在と過去」、あるいは「現在と未来」というふたつの時間が同時進行していく。ところがこのふたつの時間は、簡単には切り分けられない。映画を埋め尽くす毒々しいまでのイメージの渦に巻き込まれ、現在も過去も未来も、すべてが猥雑で混沌とした心象風景として描かれてしまうからだ。これはすべてが現実のようでもあり、すべてが夢の中の風景のようでもある。超現実的に誇張されながらも、エピソードにはどれも生々しいリアリズムが息づいている。それが次の瞬間には、夢幻の世界へと飛躍するのだ。

 物語は主人公の一人称で語られていくのだが、主人公自体が「少年」と「青年」というふたつの中心点を持っていて、それが常に揺れ動いている。この揺らぎが映画全体に細かな波紋を起こし、その波紋同士は干渉作用でさらに複雑な模様を生み出していく。

 作られてもう四半世紀たっている映画だが、作品そのものに古びた感じはあまりしない。毒々しいイメージの連鎖でストーリーを紡いでいく手法は、今観ても新鮮に違いない。しかしこの映画の放つアングラ演劇臭は、やはりどうしようもなく「懐かしいニオイ」になってしまったと思う。それは古い民家の放つカビ臭さや、動物の剥製が放つような「死んだニオイ」だ。この映画の持つ暗くて重いアングラ演劇臭は、1980年代の「小劇場ブーム」で滅んでしまったものだと思う。『草迷宮』は70年代という時代が生んだカルトムービーとして今後も多くの人を引きつけるだろうが、この映画が抱え込んでいた「時代の切実さ」は、21世紀の観客にとって遠いものになってしまっていると思う。

 この映画のテーマについてあれこれ論じても、今やあまり意味がないと思う。それは寺山修司のファンや研究者という限られた人たちにとって今も興味深いことだろうが、一般の映画ファンはこの映画を、寺山修司という才能が生み出した「映像による叙情詩」として素直に受け入れ楽しめばそれでいいのだ。

12月上旬公開予定 ユーロスペース
配給・宣伝:人力飛行機舎、ポスターハリス・カンパニー、テラヤマ・ワールド
(1979年|40分|フランス)
ホームページ:
http://www.eurospace.co.jp/

DVD:草迷宮
原作:草迷宮(泉鏡花)
関連DVD:寺山修司
関連書籍:田園に死す、草迷宮(寺山修司)

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