アラモ

2004/07/22 よみうりホール
西部開拓史に残るアラモ砦攻防戦を歴史に忠実に映画化。
時代考証の正しさが面白さにはならない好例。by K. Hattori

 1836年3月6日。テキサス独立派が立て籠もるアラモ砦は圧倒的数にまさるメキシコ軍の前に陥落し、13日間に渡って砦を死守していた男たちは全員が殺された。だがこれに奮起したテキサス独立派は、翌月にメキシコ軍との戦いに勝利してテキサスの独立を勝ち取る。この史実にもとづいて作られた映画は何本もあるそうだが、有名なのは西部劇の大スター俳優ジョン・ウェインが、自ら制作・監督・主演を勤めた1960年の大作西部劇『アラモ』。今回の映画は同じ事件を映画化したものだが、最新の歴史研究と時代考証をふまえた「歴史劇」で、戦闘シーンも西部劇というより戦争映画のようだ。

 アラモ砦の事件はアメリカ人にとって誇りなのだそうだが、僕はそもそもこの理由がよくわからない。当時のテキサスはメキシコ領だったわけで、勝手に国境を越えてテキサスに入植し、民兵組織まで作って軍隊を追い出してしまったアメリカ人は、メキシコから見れば「侵略者」に他ならないのではないだろうか。開拓民と称して勝手によそ様の土地に入り込み、もともとその土地に権利を持つ人々から反発されると、武力でそれを排除してしまう。これはアメリカで起きていたインディアン討伐戦と、基本的にはまったく変わったところがない理屈だと思う。なんだかひどく野蛮だ。(まぁそれと同じ野蛮な行為を、現在のイスラエルはパレスチナで続けているわけだけれど……。)

 テキサスがメキシコから独立しなければならない大義名分はどこにあったのか? アメリカ人には説明せずともわかることなのかもしれないが、少なくとも僕にはその理由がさっぱりわからなかった。映画の中では、それについてあまり説明していないように思う。

 アラモの英雄といえばデイビィ・クロケットやジム・ボウイが有名だが、この映画では彼らが等身大の人間として描かれ、英雄的な働きをするスーパーマンとはならない。何しろボウイは主要な戦闘が始まる前に病気で倒れて身動きできなくなり、クロケットもたまたま旧友に会おうとサンアントニオを訪れたことから、戦争に巻き込まれてしまっただけなのだ。現場のただならぬ雰囲気を見て、クロケットはつぶやく。「テキサスの戦はもう終わったんじゃなかったのか?」。デイビィ・クロケットは、この戦争の中でもっとも場違いなところに現れたよそ者なのだ。

 今のこの時代に、あえてアラモ砦を映画化する理由があまりピンと来ない。英雄譚として脚色されてきたアラモの実態を、歴史に忠実に映画化しようとする意図はわかるのだが、それがなぜ「今」でなければならないのか。映画製作者たちはこの映画に、どんなメッセージを込めようとしたのか。「アラモの伝説」という偶像を破壊するのは、伝説に馴染んだアメリカ人にとってはインパクトがあるだろう。でも偶像を壊した後、そこに新しく何を作ろうとしているのだろうか。僕にはそれがわからない。

(原題:The Alamo)

9月25日公開予定 丸の内プラゼール他・全国松竹東急系
配給:ブエナ・ビスタ・インターナショナル(ジャパン)
2004年|2時間17分|アメリカ|カラー|シネスコサイズ|ドルビーSRD
関連ホームページ:http://www.movies.co.jp/alamo/
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