TAKESHIS'

2005/10/19 スペースFS汐留
ビートたけしと北野武が互いの境遇を夢見る物語。
物語はメビウスの輪のように循環する。by K. Hattori

 北野武監督の最新作。前作『座頭市』で誰にでもわかりやすいエンターテインメント活劇を作った北野監督は、今回の映画で誰にもストーリーが追えそうにないひねくれた映画を作った。難解な芸術映画というわけではない。登場する個々のエピソードは、いつも通りの北野武の映画だ。ヤクザ同士の銃撃戦もあれば、お笑い風の掛け合いもあり、セックスがあり、バイオレンスがある。だがこの映画ではそれらが、ひとつの物語の中にきちんと収まっていない。そもそもこの映画には、物語らしい物語などないように感じられる。

 映画のテーマはドッペルゲンガーだ。北野武監督は役者ビートたけしとして自分の映画に出演してきたわけだが、映画の中ではこの「北野武」と「ビートたけし」がふたつの人格に分裂する。ビートたけしは売れっ子のタレントであり、映画監督でもある人物。そんなたけしに憧れるのが、売れない役者の北野武。このふたりの周囲で、やはりふたつに分裂した人物たちが動き回る。登場する俳優やタレントたちは、劇中でいくつもの役を演じるのだが、それはすべて「北野武」と「ビートたけし」の分裂に端を発したものなのだ。

 ただし映画の中で、ふたりの人物がひとりの役を演じたキャラクターがひとつ存在する。それは主人公の愛人役だ。演じているのはほとんどの場面で京野ことみなのだが、最後の浜辺の場面ではそれが小森未来に入れ代わる。京野ことみから小森未来へのつながりは、それ以前にもクラブの場面で両者のオーパーラップを見せており、監督としては十分に意識した上での「二人一役」だったはず。人格の分裂を描くこの映画の中で、このキャラクターだけが人格の統合を果たしているのは興味深い。これは「北野武」と「ビートたけし」の再統合を、主人公ともっとも近い場所にいる女性キャラクターに託しているようにも見える。もしそうだとすれば、北野監督はかなりの女性崇拝者に違いない。

 この映画をからは北野監督の暴力描写に対する矛盾した態度が見えてくる。おそらく現在の日本映画界において、北野監督ほど激しくリアルな暴力を描ける監督はいないだろう。それを十分に自覚した上で、北野監督は暴力シーンの演出に飽きているようなのだ。この映画ではほとんどの暴力シーンが、パロディやギャグとして描かれている。凄惨な暴力を描きつつ、それをお笑いに転化させてしまうのだ。それも徹底的に。北野映画の暴力は笑いと隣接していることがしばしばあるが、それは笑いによって暴力の凄惨さを際立たせるためであって、観客を笑わせるためではなかったように思う。しかしこの映画では、暴力は完全に笑いの対象となっている。

 しかし一方で、北野監督はやはり暴力シーンを楽しんでいるのだと思う。『プライベート・ライアン』の冒頭シーンみたいなことを、ちょっとやって見せるあたりに、そんな北野監督のお楽しみを感じる。

11月5日公開予定 丸の内プラゼールほか全国ロードショー
配給:松竹、オフィス北野
2005年|1時間47分|日本|カラー|ヴィスタサイズ|ドルビーSRD
関連ホームページ:http://www.office-kitano.co.jp/takeshis/
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