サマセット・モームの小説「劇場」を、アネット・ベニング主演で映画化したバックステージ・ドラマ。物語の舞台は1938年のロンドン。人気と実力を兼ね備えるベテラン女優のジュリアの舞台は、連日満席の盛況ぶり。興行朱で舞台監督でもある夫マイケルと、聡明な息子ロジャーに囲まれて公私ともに充実しているジュリアだったが、彼女自身はこの生活に倦み疲れていた。毎日毎日、顔を合わせるのは同じ顔ぶれ。休暇を取って、気分転換したい! しかし客がいる限り、舞台に立ち続けなければならないのが女優の宿命なのだ。だがそんな彼女の前に、アメリカ人青年のトムが現れたことから生活は一変する。トムと恋に落ち、彼のアパートで秘めた情事にふけるジュリア。この関係が彼女に女優としてのさらなる活力を与えるのだが……。
若い恋人に裏切られた女優が、彼を奪った若い女優に復讐するという筋立てだが、この復讐自体はトリッキーで見事な趣向ながら、やや八つ当たりの気味がなきにしもあらず。ジュリアが復讐すべき相手は若いエイヴィスではなく、自分を捨てたトムであるべきではないのか? エイヴィスは軽薄なトムを挑発して利用しただけであり、彼女にも多少は責められるべき非があるにせよ、これほどこっぴどく叩きのめされる理由はあるのだろうか? 物語がジュリアとトムを軸に回っている中で、エイヴィスはさして重要とも思えない脇の人物。彼女への仕打ち間接的にトムへの復讐としての効果を生み出すにせよ、これはエイヴィスにとってはお気の毒と言うしかない。
しかしこの映画が伝えようとしているのはそもそも復讐劇ではなく、ひとりの女優の再生へのドラマなのだ。舞台生活に倦み疲れたひとりの女優が激しい恋の中で身を焦がし、一度は後進に道を譲って一線を退くかに見せつつ、最後は大逆転の復活を遂げる。伝説の不死鳥フェニックスは末期を迎えると祭壇の上で自らの体を焼き尽くし、その灰の中から再び幼鳥として生まれるという。ヒロインのジュリアはまさに、舞台の上で死に、そして華々しくよみがえる。トムやエイヴィスは、不死鳥ジュリアを燃やす香木や香料みたいな役回りに過ぎないのだ。エイヴィスにはお気の毒だが、映画を観ている人は誰も彼女に同情しないだろう。新しく生まれ変わって美しい翼を広げる不死鳥を前にして、燃えくすぶる薪にいったい誰が同情すると言うのだろうか。
舞台人のエゴを丸ごと肯定してみせるこの映画の中で、ヒロインのジュリアを助ける心の声として画面に登場するのが、マイケル・ガンボン演じる老演出家ジミーだ。ジュリアの恩師だった彼の姿と言葉は、舞台人であるジュリアの女優魂に語りかける、彼女自身の内なる声。この声との対話は、ジュリアが恋に溺れながらも、自分自身の女優としての立場を忘れてはいないことを示している。大らかな舞台讃歌。久々の主演作に、アネット・ベニングが光り輝いている。
(原題:Being Julia)