クリント・イーストウッド監督が『父親たちの星条旗』と同時進行で作った、硫黄島二部作の日本編だ。『父親たちの星条旗』はアメリカ兵の立場から硫黄島戦を描いていたが、今回の映画は日本兵の立場から硫黄島戦を描いている。しかしこの2本の映画は、鏡に映した像のように、きれいな対称形になっているわけではない。それぞれが1本ずつの、独立したコンセプトの映画なのだ。
映画を観た印象は、やけに説明口調だなということ。おそらくこれは、英語で書かれた脚本を翻訳した結果、映画全体が翻訳口調になっているためだろうと思う。日本人同士の会話はもっと情緒的で曖昧模糊とした表現が多いと思うのだが、脚本が英語ベースであることから、会話がすべて論理的で明快になってしまったのかもしれない。しかしこの映画、それが必ずしもマイナスというわけではない。映画の主人公である栗林忠道中将にはアメリカ留学の経験があるし、その親友とも言うべきバロン西(西竹一中佐)にはロサンゼルス・オリンピック馬術競技での優勝経験がある。ふたりとも心情的には親米だし、英語はぺらぺら。そしてそれを、周囲にまるで隠さない。こうしたバタ臭いキャラクターの中では、翻訳調の台詞もあまり浮き上がらない。むしろ感情に流されがちな日本軍兵士の中で、ずば抜けて合理的な思考をする人物として、こうした台詞が生きているのだ。
問題はしかし、そこうした翻訳調の台詞が、他の兵士たちによって語られたときだ。合理的な栗林中将やバロン西は、翻訳調のメリハリのきいた台詞でも構わない。しかし彼らと対立する日本軍人もまた、翻訳調のテキパキした台詞をしゃべるのだから、ここで少しちぐはぐな印象が生まれてしまう。台詞過多で、物事を筋道立てて言葉で説明しているような感じもしてくる。物語の中心に近い部分ではなく、周辺部分にいる脇役レベルの人物ほど、こうした台詞のちぐはぐさが目立ってしまうのだ。
そんな中で、二宮和也演じる西郷という一等兵のキャラクターは秀逸だった。映画では渡辺謙演じる栗林中将が主人公という扱いになっているが、映画のほとんどのエピソードと場面を横断していく本当の主人公は、じつはこの西郷一等兵なのだ。いつも不満顔で自分の不運を嘆き、ふて腐れたように言葉をはき出しながら、戦場の泥の中をはいずり回る。栗林中将がこの映画の中の最高位置、いわばテッペンにいるとすれば、西郷は戦場で捨て駒として使い捨てられる名もなき兵士たちを代表している。このふたりが不思議な縁で結ばれ、最後に行動を共にするという流れは常套手段ではあるが、映画全体に最終的な統一感を生み出しているのは、予定調和とも言えるふたりのエピソードの合流にあることは間違いない。
特別に優れた映画だとも思わないのだが、こうした映画をアメリカ人の監督が撮っているという事実にジェラシーを感じる。日本の映画界は何をしているのだ!
(原題:Letters from Iwo Jima )