ミラン・トレンクの絵本「夜の博物館」を原作とする冒険ファンタジー映画。妻と離婚して一人息子ニックとも別居中のラリー・デリーは、定職がないためこのままでは息子の親権さえ失いかねないありさま。なんとか博物館の夜警という職を得たラリーだったが、勤務初日から大騒動が勃発する。なんとこの博物館では、夜な夜な展示品の標本や剥製、人形たちが動き出すのだ……。
博物館の標本は、いくら本物そっくりの生々しさで展示されてはいても、それは決して本物ではない。そんな当たり前の前提をひっくり返して、「生々しい標本が本当に生きていたら!」とするのが、この映画の最大にして唯一のアイデアだろう。博物館の正面玄関に大きく展示されている、ティラノサウルスの骨格標本。それが動き出したら! 歴史上のさまざまな有名人をかたどった蝋人形。それが生きた人間のように話したり動いたりしたら! 生きていたときの姿そのままに展示されている、さまざまな動物たちの剥製。それが命を吹き返したら! 歴史上のさまざまな事例を解説するミニチュアの模型。そこに命が宿ったら! 要するにこれは、子供なら誰もが夢見る「究極の博物館」なのだ。映画映像技術の発達で、今はそれをリアルな映像体験にすることができる。あとはそこに、あれこれ物語の上での理屈を付けて一丁あがりだ。
僕は子供の頃から上野の科学博物館が大好きだったので、この映画に登場する「自然史博物館」というものも雰囲気的に馴染みがあって、展示物が動き始める場面にはワクワクしてしまった。たぶん原作者も製作者たちも、博物館という場所が大好きなのだろう。映画の最後に、博物館が大勢の客で埋まっているシーンには、単なる教養志向だけではない作り手の博物館好みが反映しているように思える。
基本的に「博物館の展示物が動き出して、そりゃも〜大騒ぎなのさ!」というワンアイデアだけの作品なので、それ以上のストーリーにはご都合主義的な部分も多い。蝋人形のロマンスとか、主人公と新しい女性の出会いなども、この映画のスパイスにはなっていても、基本的な味の組み立てにはまったく貢献していないのだ。しかしこの映画は、それでもまったく構わないと思う。博物館の展示物が動くだけでは、全体が大味になって飽きてしまう。そこにピリリと刺激を加えて、最後までおいしく味わえる作品に仕上げるのがスパイスの役割だからだ。
この映画を観て、僕はまた科学博物館に行きたくなってしまった。もちろん本物の博物館の標本は動かないだろう(たぶん)。でもそれが動いたらどんなに楽しいだろうか! 動いたらどんなに面白いだろうか! そんな想像を働かせることで、博物館はより楽しい場所になるはずなのだ。博物館の展示物には、それぞれの物語がある。その物語を知りたいという気持ちにさせてくれる、とても教育価値の高い映画なのだ。
(原題:Night at the Museum)