チェチェンへ

アレクサンドラの旅

2008/11/19 松竹試写室
アレクサンドル・ソクーロフがチェチェン紛争を描く。
戦争と家族についての物語。by K. Hattori

 チェチェンのロシア軍駐屯地にいる孫を、ロシア人の祖母アレクサンドラが訪ねてくる。まだ少年のようなあどけなさの残る若い兵士ばかりの駐屯地で、彼女の姿はまるで異質なものだ。軽やかに駆け回る兵士たちの間を、老いた身体を引きずるように歩く80歳のアレクサンドラ。彼女はほんの短い時間を孫と共に駐屯地で過ごした後、再びロシアへと戻っていく。

 アレクサンドラというヒロインの名前は、監督の名前をそのまま女性形にしたもの。監督のフルネームであるアレクサンドル・ニコラエヴィチ・ソクーロフを女性形にすると、アレクサンラ・ニコラエヴナ(ソクーロフは略)になる。つまりこのヒロインは、ソクーロフ監督の分身というわけだ。

 彼女はチェチェンに行って、ただ孫の顔を見たいのだ。孫に直接、自分の気持ちを伝えたいと願っているだけなのだ。チェチェンになぜ紛争が起きているのか。なぜロシア軍がその地に駐屯しているのか。そんなことにアレクサンドラは興味がない。彼女にとって大切なのは、孫と自分のことだけなのだ。

 家族に会うため駐屯地を訪ね「祖母」というアイデア自体が、この映画の優れた部分だと思う。実際のチェチェン紛争では戦地を訪ねる母親たちも多かったそうだが、母と息子では感覚的に距離が近すぎるのだ。祖母と孫であればこその生じる、肉親の情と互いに半ば客観視したような距離があればこそ、この映画は成立している。その距離感と同じ射程の中に、他の人々を巻き込むことができる。アレクサンドラは駐屯地の他の若い兵士たちを、市場で出会ったチェチェン人の青年たちを、自分の孫を見るような眼差しで見つめる。駐屯地の兵士たちもまた、アレクサンドラを自分自身の母か祖母に接するかのように扱う。若い男ばかりが群れて暮らす駐屯地の中で、アレクサンドラは性を超越した大人の女性として、あらゆる兵士たちの「母親」や「家族」のイメージを投影できる存在となる。

 映画の前半はアレクサンドラがいわば匿名の「母親像」を演じていて、僕はそこに多少きれい事めいたものも感じていた。だが映画終盤で彼女と孫の間に言い争いが起こり、彼女が自らが抱える個人的な葛藤や悩みを打ち明けるくだりは感動的だ。それまで見知らぬお婆ちゃんでしかなかったアレクサンドラが、この瞬間にようやく生身の人間としてスクリーンに現れたような気さえした。それは彼女の孫も同じだ。

 駐屯地を去っていくアレクサンドラを見送る将校が、ふと彼女の手を握りかけてやめるシーンがある。映画の中盤までであれば、この将校が彼女の手を握ったとしてもまるで不自然ではなかっただろう。彼女は駐屯地にいる兵士たち全員の「おばあちゃん」だからだ。でも孫との一件があって以降の彼女は、観客にとってもう基地の兵士たちみんなの「お祖母ちゃん」ではない。彼女は自分の孫の身を案じる固有の存在として、映画の中から去っていくのだ。

(原題:Aleksandra)

12月20日公開予定 ユーロスペース
配給:パンドラ、太秦
2007年|1時間32分|ロシア、フランス|カラー|1:1.66|ドルビー・デジタル
関連ホームページ:http://www.chechen.jp/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:チェチェンへ/アレクサンドラの旅
関連DVD:アレクサンドル・ソクーロフ監督
関連DVD:ガリーナ・ヴィシネフスカヤ
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