直下型地震で地盤が弛んでいた東京都心に超巨大台風が襲いかかり、高波による浸水で臨海部の地下街が水没。地下鉄新橋駅構内に閉じこめられた数人の生存者は、元レスキュー隊員だった祐司の手引きで地上に救難信号を送るのだが……。
『海猿』シリーズの原作者でもある水森陽一の書き下ろし原作を、『海猿』シリーズの伊藤英明主演で映画化した和製ディザスター・ムービー。海上保安庁の潜水士を主人公にした『海猿』に対して、こちらは消防庁のハイパーレスキュー隊が主人公。海の『海猿』に対して、陸上の『252』という趣向だろう。リアルなCGと実物大のセットを組み合わせて、未曾有の災害によって首都が蹂躙されていく様子を映像化したのは、『花田少年史/幽霊と秘密のトンネル』や『舞妓 Haaaan!!!』の水田伸生監督。
かなり力の入った大作映画だと思うが、この映画にとって最大の欠点はその力の入り具合にある。最初から最後まで力が入りすぎで、観客が入り込める隙間が映画のどこにもない。登場人物も、物語の展開も、演出も、ガチンガチンに力みきって観客をはねのけてしまうのだ。なぜこの映画の登場人物は、みんながみんなこんなに肩に力が入ってるんだろう。なぜみんな、台詞を怒鳴り合うようにして喋るんだろう。もちろん映画に描かれているのは、何百年に一度という驚天動地の出来事だから、登場人物たちの狼狽ぶりが非日常的な空間を作り上げてしまうのはわかる。でも映画を観ている観客は映画の中で何が起きようと「日常」の側にいるのだから、映画は描かれている「非日常」と観客の持つ「日常」の間を結びつける、何らかの仕掛けを作っておく必要があるのだ。
映画と観客をつなぐ「仕掛け」としてよく用いられるのは、映画の中に観客が感情移入できる人物をひとりかふたり混ぜておくことだ。それは観客の分身として映画の中を生きることができる、取り立てて特徴のないごく普通の人間だ。災害パニック映画にしばしば子供が登場するのはなぜか。それは子供になら、どんな観客も比較的楽に感情移入できるからだろう。女性や動物などの弱者が、大きな役目を演じることも多い。この『252 生存者あり』もさまざまな人物を登場させる群像劇になっているが、残念ながら観客を物語の中に導くことはできなかった。これは各人物に、特殊なエピソードがありすぎなのだ。
彼らのエピソードはそれぞれに面白いのだが、面白すぎてかえって観客からは他人事になってしまう。何でもない普通のサラリーマンとか、たまたま通学途中に巻き込まれた女子高生とかをなぜ入れとかないんだ。グランドホテル形式は物語の枠組みを何の変哲もないホテルに設定しているからこそ、その中にあるドラマチックな人生模様が映えるのだ。逆にディザスター・ムービーでは、何の変哲もない人々がいることで災害の恐ろしさが映えるのに……。わかってないよなぁ。