掌(てのひら)の小説

2010/02/10 TMシアター新宿
川端康成の同名掌編集から4編を選んだオムニバス映画。
映画としてはちょっと薄味だ。by K. Hattori

Tenohira  川端康成の「掌(てのひら)の小説」は、原稿用紙数枚程度のごく短い掌編(しょうへん)小説122編を集めた作品集。この映画はそのうち4編を選び、4人の監督が映像化したオムニバス映画だ。取り上げられている作品は、作家の男と肺病の妻の暮らしを描く「笑わぬ男」、私娼に売られていく若い娘とバス運転手の交流を描く「有難う」、映画館で歌を歌う亡命ロシア人少女に魅せられる若い男の心理を描く「日本人アンナ」、若い頃に心中ざたで恋人を失った老人と亡くなった恋人の再会を描く「不死」。このうち「有難う」は、清水宏監督によって戦前『有りがたうさん』というタイトルで映画化されているので、今回はいわばリメイクということになる。

 原作は1899年生まれの川端康成が20代の頃に書いたものだということだから、だいたい大正末期から昭和初期が舞台になっている。原作は掌編だから話の骨格だけ借りてどうとでも料理は可能なはずだが、映画では結局「原作のままの時代」に設定してある様子。しかしこれが、今この時代に映画を作る手法として適切だったのかどうかはわからない。例えば大正末期から昭和初期の風俗が、現代人には既にわからなくなっている。「有難う」で街に売られていくという若い娘は、いったいどんな場所に売られていくのか、それがもうわからない。映画でもこのあたりの描写は曖昧だ。私娼窟は例えば永井荷風の原作を映画化した豊田四郎や新藤兼人の『墨東綺譚』などにも登場するが、そこでは女の性を売り買いする生々しい現場がさりげなく、それでいて誤魔化されることなくきちんと描かれている。女の部屋の中がどうなっていて、女がどんな生活をしていて、客は誰に金を渡してどのぐらい女の部屋に滞在することができるのかが、わかる人にはちゃんとわかるように描かれている。しかし今回の映画の「有難う」にはそれがない。

 また言葉遣いの問題がある。昭和初期の日本人が日常的に喋っていた言葉を、現代の俳優はうまく喋ることができない。本人はうまく喋ったつもりでも、聞いている側には違和感が出てしまう。戦前の日本映画では同じような台詞を同じように当時の俳優が喋っているのに、同じことを現代の役者がやると不自然なのだ。言葉遣いを昭和初期風にするのは脚本や演出の狙いでもあるのだろうが、これは現代語を基調にして、そこに当時の言葉を少しずつ入れていく方がむしろ自然だったと思う。これは時代劇で使っている手法であり、戦前戦後を舞台にした多くのテレビドラマなどでも用いられている手法だ。なぜそうした一般的な方法を取らなかったのかは不明だが、今回の映画では結果として言葉だけが映画の世界から浮き上がり、台詞がまったく馴染んでいないような印象を受けた。

 4つの映画の中では一番最後の「不死」がよかった。理由は短いから……。どうせなら他のエピソードも時間をもっと短く区切って、かわりにエピソード数を倍に増やせばよかったと思う。

3月27日公開予定 渋谷・ユーロスペース
配給:エースデュース 配給協力:グアパ・グアポ
2009年|1時間20分|日本|カラー
関連ホームページ:http://www.tenohira-kawabata.com/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:掌の小説
原作:掌の小説(川端康成)
関連DVD:坪川拓史監督
関連DVD:三宅伸行監督
関連DVD:岸本司監督
関連DVD:高橋雄弥監督
関連DVD:吹越満
関連DVD:香椎由宇
関連DVD:福士誠治
関連DVD:有りがたうさん (1936年/清水宏監督)
ホームページ
ホームページへ