1910年。トルストイの文学と思想に心酔するトルストイアン(トルストイ主義者)の青年ワレンチンは、トルストイの個人秘書募集に応募し採用されたことで有頂天になる。だが彼が上役のチェルトコフに命じられたのは、トルストイ夫人ソフィヤの身辺をスパイすることだった。じつはこの頃、トルストイは自らの新しい仕事として、トルストイアンによる理想社会の建設に心血を注いでいた。このため事業を補佐するチェルトコフらのグループと、50年近くトルストイの身辺を支え続けてきたソフィヤ夫人の間では深刻な対立が起きていたのだ。大作家の膨大な著作権収入を天下万民のために使おうとするトルストイアンたちにとって、トルストイ本人の思想や意思を無視して財産を私物化しようとするソフィヤ夫人は財産目当ての害虫のような女。だがなぜかトルストイもソフィヤ夫人も新人秘書のワレンチンを大いに気に入り、個人的なことまで打ち明ける親しい関係になる。ワレンチンは両者の間で板挟みになって悩むが、一方禁欲と純潔が徹底されているトルストイアンの村で、ワレンチンはマーシャという女性と知り合い恋に落ちるのだった……。
「戦争と平和」や「アンナ・カレーニナ」などを書いたロシアの文豪レフ・トルストイが、晩年に家族、特に妻ソフィヤとの確執に悩まされ、最後はそれから逃れるように家出して死んだことはよく知られている。この映画はそんなトルストイの死に至る最晩年を、トルストイ最後の秘書ワレンチン・ブルガコフの視点から描いている。ジェイ・パリーニの原作はさらに多くの視点から複眼的に事件を描いているようだが、複雑に絡み合った人間関係の真っ直中に、まったく事情に疎い部外者であるワレンチンを紛れ込ませて彼の視点から物語を綴っていくという映画版の筋立てはよくできている。
これまで文学史ではトルストイを理想主義の聖人のように描き、ソフィヤ夫人は夫の偉大さを理解できず苦しめた悪妻として描写されることが多かったようだ。映画の中のワレンチンやチェルトコフのように、トルストイの思想に共鳴心酔してトルストイの教えに沿った生活を守ろうとするトルストイアンと呼ばれる人たちが世界中にいた。日本でも白樺派の文学者たちはトルストイの影響を受けており、「新しき村」はトルストイアンのコミューンを日本式に模倣したものだとか。そうしたトルストイ信奉者にとって、トルストイを最後まで悩み苦め命を奪う家出にまで追い込んだソフィヤ夫人は悪妻でしかない。しかしこの映画で描かれているトルストイ夫妻の関係は、それほど単純なものではないのだ。ふたりは愛し合っている。愛し合っているからこそ、関係が複雑にこじれていく。ここに描かれている夫婦関係は、ことさら特殊なものではないと思う。トルストイは有名人だから話が大げさになっただけで、似たような夫婦は世の中にごまんといるだろう。
(原題:The Last Station)