シルビアのいる街で

2010/06/14 松竹試写室
6年前に1度出会った女性を探し求める青年。
表現としてはほとんど実験映画。by K. Hattori

Sylvia  ドイツとの国境に近いフランスの町ストラスブール。映画はこの町の小さなホテルに泊まるひとりの青年が、町で過ごした3日間の出来事を描く。彼の目的は何なのか、彼は何のために町にやってきたのか、彼の名前は、職業は……。そうした事柄に、この映画はまったく答えない。説明的な台詞を排除して、カメラとマイクはこの青年の目と耳に同化する。町の中で青年が目撃する風景と人々の姿。彼が耳にする町の中のざわめき。それらが映画を形作って行く。

 まるでドキュメンタリーのような雰囲気を持つ映画だが、注意深く観ればこれが緻密にコントロールされた映画であることは誰にでもわかる。例えば青年がオープンカフェで、そこに集まる客たちを眺める長いシーン。カメラを切り返したり、人物を使ってカメラの視線をさえぎったり、特にこれといって大きなアクションのないシーンだが、カメラはあちらこちらに大胆に動き回るのだ。ひとつひとつのカメラ位置は平凡に見えるのだが、それぞれの位置は主人公の青年の動きに合わせて微妙に変化し、レンズの長さも変えられている。じつはこの映画の中で、僕が一番面白いと思ったのはこのカフェのシーンだった。

 このあと主人公の青年はカフェで見つけた若い女性を追跡して、ストラスブールの街を歩き回る。だがこの追跡シーンは映画の中で、それほど大きなサスペンスを生み出すことがない。それは青年の目的が、映画を観ているこちらに明確になってしまったからだろう。彼女の名前はシルビアで、青年はかつて彼女と面識があったらしい。彼はカフェでずっと彼女を探していたのだろう。そして彼女を見つけ、追い掛けはじめる。ここで物語の主役はふたりになる。青年は彼女を追い、声をかける。彼女はその青年に、どう応えるのだろうか? 映画を観る側の興味関心は、ここから女性の側に移っていく。

 映画のジャンルとしては恋愛映画のようにも、青春のシッポを抱えた大人が人生のどこかでふと立ち止まってしまったような映画にも見える。だが登場人物たちが置かれている状況やここに至る経緯などは映画に描かれておらず、映画を観ながら登場人物たちに感情移入していくことは難しいだろう。僕はこの映画の本質的な部分は、表現や構成の上での実験にあると思っている。映画の中で、青年は自分の周囲の人々を徹底して観察していく。しかしそれと同じかそれ以上に熱心に、映画を観る観客たちも彼のことを観察しながら、その背景や心理を探り出そうと努めている。映画の中で「観る男」は、映画の中で「観られる男」でもある。観客は映画を積極的に観て、その内容を読み取っていこうとしないと、この映画は観客に対して何も語ってくれない。「観る」と「観られる」のせめぎ合いの中で、この映画は登場人物の心理や街の風景と行った具体的なものを越えて、「観る」という行為そのものを凝視し掘り下げていくことになる。

(原題:En la ciudad de Sylvia)

7月下旬公開予定 シアター・イメージフォーラム
配給:紀伊國屋書店、マーメイドフィルム
宣伝:VALERIA、bonaparte 配給協力:コミュニティシネマセンター
2007年|1時間25分|スペイン、フランス|カラー|ヴィスタ|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://www.eiganokuni.com/sylvia/
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
DVD:シルビアのいる街で
関連DVD:ホセ・ルイス・ゲリン監督
関連DVD:グザヴィエ・ラフィット
関連DVD:ピラール・ロペス・デ・アジャラ
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