もうひとつの世界

2013/06/04 シネマート六本木(スクリーン3)
赤ん坊を拾った見習い修道女は子供に情が移ってしまい……。
修道女を主人公にしたヒューマンドラマ。by K. Hattori

13060401  人生は一度きり。人は自分の人生を1度しか生きることができない。「あの時ああしていれば」とか、「自分にはもっと別の選択があったのかも」と思っても、過ぎてしまった過去は取り戻せない。しかしそんな人生の中でも、人は何かのきっかけで「自分にとっての別の人生の可能性」を垣間見ることがある。ある出来事が、その人のその後の人生を決定的に変えてしまう瞬間だ。この映画に限らず、多くの映画がそんな人生の瞬間を描いている。

 見習い修道女のカテリーナは、見習い期間も残り11ヶ月。来年には終身誓願を立てて、念願の修道女になる予定だ。だが仕事で出かけたミラノの公園で、彼女は見ず知らずの男から産まれたばかりの赤ん坊を押し付けられる。「そこの木陰で拾ったんです」という男の言葉に嘘はなさそうだ。彼女は赤ん坊を病院に連れて行くが、赤ん坊がくるまれていたセーターを手がかりに産みの親を探し始める。セーターは市内のクリーニング店で洗濯されたもので、持ち主はその店主エルネストだという。仕事以外に何も関心がない堅物の独身中年男エルネストだが、セーターはかつて働いていたテレーザという店員に貸したのだという。ではテレーザが赤ん坊の母親なのか? カテリーナとエルネストは、一緒にテレーザを探し始める。だがこの間に、カテリーナは拾った赤ん坊に情が移って離れがたい気持ちになっていた。

 修道女が主人公という珍しい映画だが、この映画での修道女という属性は、自分自身では動かしがたい自分の人生を象徴するものとなっている。修道女の人生には、恋愛もないし、結婚もないし、子供もいない。だが拾った赤ん坊を手放したくないカテリーナは、赤ん坊のために自分のこれまでの人生を捨てても構わない、いやむしろ捨てるべきなのではないかという気持ちに傾いていく。一方エルネストは、自分がひょっとすると赤ん坊の父親なのではないかと思い始める。もしそうなら、これは自分の人生が大きく変わる大事件だ。彼は赤ん坊を前にして、自分のこれまでの人生と、これから先の人生につて考え始める。

 赤ん坊を捨てたのは誰なのか。赤ん坊の父親は誰なのか。そんなミステリー仕掛けの物語だが、映画の最後で明かされる真相にはヒネリがないのが残念。謎解きが目的の映画ではないのなら、最初に母親が子供を捨てる場面を見せてしまったほうが良かったのではないだろうか。そうすれば主人公たちがこの母親に迫ってくることでサスペンスが生まれるし、なぜ彼女が子供を捨てざるを得なかったのかも、もう少しきめ細かく描けたように思う。この映画ではカテリーナとエルネストが丁寧に描かれていたのに比べると、子供の母親がちょっと取っつきにくいのだ。

 修道女の生活振りが丁寧に描かれていたのが面白い。修道女は聖女ではなく、修道服を着たひとりの生身の女性なのだ。

(原題:Fuori dal mondo)

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6月29日公開予定 ヒューマントラストシネマ有楽町
配給:パンドラ 宣伝:アルシネテラン
1998年|1時間40分|イタリア|カラー|1.85:1|ドルビーデジタル
関連ホームページ:http://www.vivaitaly-cinema.com
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
サントラCD:Fuori Dal Mondo
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