ハンナ・アーレント

2013/07/24 シネマート六本木(スクリーン3)
女性哲学者のアイヒマン裁判傍聴記が起こしたスキャンダル。
これは半世紀前に起きた炎上事件だ。by K. Hattori

13072401  ハンナ・アーレントは20世紀を代表する女性哲学者のひとりだ。代表的な著書は1951年に出版された「全体主義の起源」だが、それよりも1963年に発表された「イェルサレムのアイヒマン―悪の陳腐さについての報告」でよく知られている。これはナチスの戦犯として逮捕されたアイヒマンの裁判傍聴記。アーレントは自分自身の目で見たアイヒマンを血も涙もない悪魔のような人間とはせず、どこにでもいる平凡な、平凡すぎるほど平凡な人間として描いた。どこにでもいる普通の人間が、目の前にある権威や権力に盲目的に従って非人間的な悪を成し遂げる。人は与えられた役割に応じて、善人にもなれれば悪人にもなり得るのだ。ホロコーストという20世紀でも最大の悪は、官僚的で没個性的な悪だった。アーレントはそれを「凡庸(陳腐)な悪」と呼んだ。

 アーレントの記事は世界中に大きな反響を引き起こし、「普通の人間が条件付けによって非人間的な行為を行えるか?」が議論になった。これに決着を付けたのは、アメリカの心理学者スタンレー・ミルグラムだった。彼は有名なミルグラム実験によって、人間が条件次第で他の人間に重大な加害行為を行い得ることを立証した。その数年後にはスタンフォード大学のフィリップ・ジンバルドーがスタンフォード監獄実験と呼ばれる芝居じみた実験を行って、人間が与えられた役割に素早く適応して加害行為を行うことを立証した。アーレントの見たものは正しかったのだ。だがこうした人間性の真実は、今でもあまり広く理解されているとは言いがたい。

 映画はハンナ・アーレントの長い生涯の中から、彼女がアイヒマン裁判とその傍聴記の執筆に取り組んだ1960年から1963年までの4年間を切り取っている。アーレントが真摯に取り組んだ裁判傍聴記録は、同胞であるユダヤ人たちから非難囂々の憂き目に遭ってしまう。彼女は孤立し、親しい友人たちは次々と彼女のもとを去り、やがて大学での職を解かれるかもしれないというところにまで追い込まれていく。「イェルサレムのアイヒマン」という本は今でも有名だが、それがこれほどの大スキャンダルを巻き起こしていたとは知らなかった。

 ただしこの映画ではそのスキャンダルの原因を、彼女が述べた「凡庸(陳腐)な悪」という概念のせいだとはしていない。アーレントは裁判記録の中から、ユダヤ人組織の一部がナチスのホロコースト政策に協力し、多くのユダヤ人が犠牲になったという事実を暴き出す。そのことがアーレントを、「ユダヤ人を裏切ったナチス擁護者」にしてしまった。映画の中では最後まで、「凡庸(陳腐)な悪」が議論の焦点になることはない。

 この映画を観ていると、ブログでの些細な言葉づかいが問題になって、芸能人ブログが大炎上!といった事態を連想する。要するにアーレントは50年前に「炎上事件」を起こしていたのだ。

(原題:Hannah Arendt)

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10月26日公開予定 岩波ホール
配給:セテラ・インターナショナル 宣伝協力:テレザ、VALERIA
2012年|1時間54分|ドイツ、ルクセンブルク、フランス|カラー、モノクロ|スコープ
関連ホームページ:http://www.cetera.co.jp/h_arendt
関連ホームページ:The Internet Movie Database (IMDb)
関連書籍:ハンナ・アーレント
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