リトル・ブッダ

1994/06/03
西洋人監督が東洋の神秘を描いて彼の地では大ヒットしたようだが……。
キアヌ・リーブスの釈迦にはアリガタミがないなぁ。by K. Hattori


 とにかく子役の三人がよい。シアトルで発見されたアメリカ人のジェシーは案内役。途中から現れるラジュもギータも、まるで映画の中にはじめから登場していたように自然にうちとけ、すがすがしい印象を残す。表情も動きもいい。すごくいい。この三人を観られただけでも、少なくとも700円分ぐらいの価値はある。

 映像も絢爛豪華。ロケーションの空気感を存分に味あわせてくれる映像。暖色系でまとめられたブータンやネパールの風景、シッタルダ王子のエピソードと、寒色系で描かれるシアトルの風景は露骨な対比を見せるが、これは美しすぎるブータンの風景に麻痺した脳細胞をマッサージする効果あり。ブータンの風景は常に新鮮に目に飛び込んでくる。これだけで千円ぐらいの価値はあるぞ。

 ジーパン姿でシアトルの住宅街を歩くチベットの高僧という映像のユーモア。アメリカ人の少年がその高僧の生まれ変わりであるというアイディア。これは素晴らしい。金髪のチベット僧なんて、ビジュアルとして最高ですよね。これだけで300円分は楽しめる。これで映画の入場料はすべて元が取れるのだ。(指定席券の人は、あと800円分どこかで楽しんでください。)

 映画の元を取ったところであら探し。そんなもの余計だとの声もあろうが、このあら探しこそ映画を映画館に観に行ったものの特権だもんね〜。

 キアヌ・リーブス演ずる若き日のブッダのエピソードは余計だと思った。仏教の知識がない欧米人には必要なのだろうけど、日本人にはかえって邪魔ですね。平凡な家庭にある日突然チベット僧が訪れて「おたくのお子さんはチベットの高僧の生まれ変わりです」と告げるのは大事件。この事件とその後のすったもんだだけを描いた方が、少なくとも日本人には面白いのではなかろうか。それにしても、ブッダが悟りを開く前にさまざまな誘惑を受けるシーンは、仏教と言うよりむしろキリスト教の福音書に出てくる「荒野の誘惑」を思い出させますね。『最後の誘惑』というスコセッシの映画にも出てきました、アレです。それにも増して気になるのは、キアヌ・リーブスの瞑想する顔がねぇ。日本人が「瞑想」というと、どうしても禅宗の坊主が座禅してるところをイメージするじゃないですか。ところがキアヌ・リーブスのお釈迦様は、半眼でぼんやりニカニカ笑ってるだけなんだよね。ちょっと幻滅。それでも映像はすごい。特に王子だった頃の豪華な衣装や美術には目を見張ります。これで帳消し。

 ブリジット・フォンダがお母さんを演じているというのも見どころのひとつだったんだけど、今回のブリジットちゃんは完全に脇役に徹してます。これなら別にブリジット・フォンダでなくてもいいよねぇ。ブータンにも行かないしさ。いやなに。別にブリジット・フォンダが役者をやっていても構わないんですが、これだけ華のあるスター女優ですから、観客である僕としてはもう少し活躍してくれることを期待しただけなんです。

 総じて仏教僧や寺院での描写に比べると、シアトルの描写は淡泊で薄味。もう少し掘り下げると、西欧と東洋のカルチャーギャップなんかも表現できたと思うんだけど……。ちょっと淡々としすぎてますね、全体に。これだけの素材でありながら、ここまで非ドラマチックに描くというのもすごいけど。それが監督のねらいなのかもしれないと想像しつつ、僕はもうひとつスパイスが欲しかったです。それが塩胡椒なのかお醤油なのかはわかりませんけどね。


ホームページ
ホームページへ