ルビーフルーツ

1995/02/12 丸の内東映
バリ島を舞台にした怪しげなレズビアン映画だけど意味不明。
南果歩の顔を見るのも嫌になる映画。by K. Hattori


 全編意味不明。お話がわからないような、難解な物語ではない。しかし、なぜこのお話が成り立ってしまうのかわからない難解さが、映画の背後にあって、それがひどく気持ち悪い。

 この物語を理解するひとつの方法として、登場する全員が気違いだという仮定をしてみると、案外すんなりと全体の構造がわからなくもない。主人公の女も、空港で彼女に伝言を頼む女も、マッジック・マッサージの女も、自らを巫女だと称する若い女も、彼女の回りに群がる女たちも、全員が狂っている。狂気とは、それが常人に理解されないがゆえに狂気といわれる。この映画の観客がこの映画を理解できないのは、この映画に登場する人物たちが全員狂っているから当たり前なのだ。

 しかし少なくとも僕は、気違いの生態を興味深く観察するため、この映画を観ているわけではない。まがりなりにも貴重な時間をさいて劇場に足を運ぶ観客のひとりとして、もう少し別の何かを、僕はこの映画に期待していた。それは、ぴあの映画紹介記事にあった、例えば『衝撃のラブ・ストーリー』というものがなんであるかを見るためであり、例えば『日本人の女性同士の恋を、神秘的ムードの中に描く』ということがなんであるかを確かめることでもあった。この妖しげな宣伝文句につられて映画を最後まで見てしまった僕は、たんなる馬鹿でした。

 僕はキューブリックの『2001年宇宙の旅』という映画が、あまり好きではありません。というより、あの映画をやたらとありがたがり、哲学的なテーマをそこから読みとろうとする趣味について行けないのです。特に終盤の、思わせぶりな断片的映像の羅列など、観ていて「かなわんなぁ」と思います。ま、それでもこの映画はキューブリックですから、それなりに観るところもあるんですがね。

 『ルビーフルーツ』という映画は、『2001年』終盤の思わせぶりな雰囲気だけを抽出して、それが〈芸〉だと勘違いしているような映画です。決定的な勘違いは、キューブリックの映像はどのワン・カットをとっても芸術だけど、この勘違い映画に〈芸術〉の名に価するような緊張感などひとつもないということなんだ。あるのは〈思わせぶりな映像〉が芸術なんだというヘンな思いこみだけ。話自体はもっと単純に見せられるのに、わざわざもったいぶった回りくどい表現で物語を撹乱し、観客を煙に巻こうという態度は解せない。結果として、内容の空虚さだけがやたらと目立った映画に仕上がっている。

 それにしても、主演の南果歩は仕事を選んだ方がいいよ。前回彼女を見たのが『エンジェル・ダスト』で、あのひとりだけ力んだ芝居にはうんざりしたけど、今回もほとんど同じ芝居で、ふたたび僕はうんざり。好きな女優だったんだけどなぁ……。


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