ニューエイジ

1995/04/09 銀座シネパトス3
生きる指標を見失った現代人があてもなく漂流して行く。
モラルの崩壊を風俗として描き切った快作。by K. Hattori



 人間が生きて行くのって、いろんな面でくたびれるよなぁ、と同情を禁じ得ない映画。と言っても、主人公たちに同情しているわけでは決してない。この映画の登場人物があらわにしている、人間の愚かさや弱さのようなものに、なんとなく共鳴するものがある点に、思わずうなずいてしまうのです。

 ボロボロになった夫婦関係を、積極的に修復しようとするわけでなし、かといって終わらせてしまうでもなし、ただずるずると同居を続ける主人公たちの姿はこっけいです。互いに別のパートナーと、しかも同じ屋根の下で同衾しながら、それでも夫婦関係が破綻しない(この時点で一種の破綻だが)人間関係は、ある種のすがすがしささえ感じて、ちっともモラルに反した背徳の香りがしないのがいい。この映画はありとあらゆる人間のネガティブな面を描きながら、ちっとも陰鬱な雰囲気にならない不思議な作品です。

 この映画の中では、宗教や人の死すら笑いの対象になっている。自分の思い通りにならない人生になかば絶望しつつ、自分の外側に何の絶対的な価値観が見つけられない現代人の置かれている立場が、うまく描けているんじゃないだろうか。一方で、そうした絶対的なものにのめり込んでしまう人々もいるわけで、それはそれで幸せな生き方なのかもしれないね。少なくとも、この映画の主人公たちにそうした外部の基準があれば、この映画は成立しなかったでしょう。明確な指標のない現代にあっては、指標のないことは滑稽だし、指標に頼ることもまた滑稽に見えてしまうんですね。

 主人公たちは、自分が頼るべき何かをずっと探していて、ずっと探し出せずにいる。既存のモラルが崩壊している現代、モラルに従った生き方をすることも難しい。中心不在で、漂うように移動してゆく主人公たちの姿は、そのまま僕たちの姿でもあるんだな。仕事にも熱中できず、恋愛にものめり込めず、宗教にも根本的に無関心。かと言って、刹那的な快楽に完全に身を任せてしまうことにも抵抗を感じる。自分は何かをしなければならない。でも、それがなんだかわからないという焦燥感。こうしたあせりの感情には、かなり共感してしまうんだなぁ。

 物語の終盤で登場するサミュエル・L・ジャクソンは、その点でまったく迷いのない生き方をしている。志気を鼓舞し、叱咤激励し、的確な助言を送り、賞賛の拍手を送るジャクソンの姿はじつに大きく見えるが、彼の職業は電話セールスの上役。やがて彼は、神のように主人公を導いてゆくことになる。結局、現代人にとって支えとなる指針を出せる人間は、セールスマンぐらいなものなんでしょうかねぇ。

 時期が時期だけに、この映画に登場する新興宗教の描写は面白かった。信じるものは救われるのじゃ。



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