ネル

1995/06/03 日劇プラザ
リーアム・ニーソンとナターシャ・リチャードソンは好演。
ジョディ・フォスターの演技は少し鼻につく。by K. Hattori



 この映画の欠点はひとつだけ。それはネルを演じたジョディ・フォスターが、うますぎることなのだ。彼女に演技者としての才能があることはよくわかるのだが、それが少々鼻につく。文明から隔絶された野生児を演じていながら、その裏側にある知性を常に感じさせてしまう。もっと端的な表現をするならば、観客である僕はネルという人物を見ながら、常にその向こうにいるジョディ・フォスターという女性と対峙し続けることになるのだ。ジョディ・フォスターの演技は完璧だが、その完璧さが演じている人物と女優としての彼女との差を際立たせ、それがたまらなく僕には不快だった。

 ジョディ・フォスターという女性は才能あふれる女優であると同時に、画面に登場したとたんに観客の耳目を一身に集めてしまうスターでもある。観客は彼女の演じる役柄を、ジョディ・フォスターというスターと切り放して見ることが困難なのだ。これは観客が女優ジョディ・フォスターに対して抱いている、ある種の予断であり偏見であり思いこみであり期待である。彼女がこうした観客の期待にこたえた役を演じれば、観客は何の違和感もなくすんなりとその役になじめることだろう。

 しかし、この『ネル』という映画で、彼女はそうした観客の期待を大きく裏切る。彼女はあえて、人々が女優ジョディ・フォスターに抱いている人物像と正反対の人物を演じてみる。確かにそれは、女優としてはやりがいのある仕事だろう。だが、僕はひとりの観客としてこの意欲あふれる試みは失敗だったと感じざるを得ないのだ。ジョディ・フォスターはどんなに完璧な演技をして見せても、しょせんはジョディ・フォスターというスターのオーラを越えられない。突き抜けて向こう側に行くことができない。影絵遊びの裏側にある実体が、どうしたって明け透けに見えてしまうのだ。それが巧妙に隠されていればいるほど、わずかにのぞく実体が際立って目立ってしまう。この映画を見た観客は、はたしてスクリーンの中に野生児〈ネル〉を見ることができたか? 観客が見ていたのは、ネルを演じていたジョディ・フォスターという女優ではないのか。

 僕はこの映画から「ほらほら、私ってこんなに上手にお芝居ができるんです」というジョディ・フォスターのメッセージを、まず嗅ぎとってしまった。町のビリヤード場でネルが上半身をはだけてクルクル回るシーンなど、彼女は自分の演技に酔っている。ザラザラとした舌触りの不快感を、僕は感じる。

 例えばこの役柄をまったく別の、できれば新人女優が演じたら、映画はまったく別の作品になっていただろう。僕も素直に感動できただろう。リーアム・ニーソンとナターシャ・リチャードソンが思いのほか良かったので、少し無い物ねだりをしてみる。


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