ざ・鬼太鼓

1995/06/18 文芸坐2
ドキュメンタリーとフィクションの融合を謀った野心作にして失敗作。
加藤泰が撮ったままオクラになった幻の松竹作品。by K. Hattori



 佐渡を拠点に活動する芸能集団・鬼太鼓座(おんでこざ)の記録映画なのだが、加藤泰が監督したこの映画は、なかなか一筋縄では行かない不思議な映画なのだ。映画の後に製作者を交えたトークショーがあったのだが、それでもやはり、この映画の不思議さ具合はなかなか解きあかせない。

 まず何より不思議なのは、この映画が全編ドキュメンタリー(ノンフィクション)というわけではなく、ところどころに全くの虚構をはさみこんでいることだろう。これはヤラセとか再現とか演出ということを越えて、本当の虚構。完全な作りものなのだ。例えば女性が八百屋お七を踊るシーンは、鬼太鼓座とは全く関係のない映像だという。これは監督である加藤泰が、自分の趣味だけで作り上げてしまった世界なのだ。

 映画は前半、若者たちが全国各地から続々と佐渡に集まり、ひたすら走り、ひたすら太鼓をたたいてひとつひとつの演目を組み立てて行くあたりが最高に面白い。ここには70年代の青春の一断面が、生き生きと活写されていると思う。鬼太鼓座というある種のコミューンに、吹き寄せられるように集まってくる若者たちが、わさわさとざわめきながら、ストイックに技能の向上を目指す姿を、加藤泰は清潔で張りつめた映像を使って描き出す。

 ほとんど人物の個人的なエピソードが出てこない映画だけに、わずかに散見できる細かな言葉やシーンが印象に残った。自分の子どもや孫は絶対に鬼太鼓座に入れたくないと言い切る地元の老婆や、鬼太鼓座の活動から離れ、結婚し子どもを生んだ女性がかつての仲間を訪ねてくるところなど、ヘンにそこだけが生々しい。

 マラソンから帰ってきたメンバーが玄関先に積み上げてある笛を次々に取り上げて表に駆け出し、そのまま笛を吹き始めるシーンが、鬼太鼓座の練習の過激さを象徴している。あれだけ走れば息が上がって、普通は笛なんて吹けないだろうに、彼らはやすやすと音を出す。こうして鍛えた結果が、実際の演奏の中にも生きているのでしょう。

 圧巻はやはり太鼓の演奏シーン。ばちをふるう男の顔が徐々に紅潮してゆくところを、カメラがじっくりと正面から撮影している場面などは、観ているこちらも力が入ります。火山のセットがぐるぐる回るという美術(横尾忠則)も傑作だし、商店街のようなところで演奏する場面も興奮した。全編、音と映像がしっかりシンクロしているのは音楽映画として当然だが、演奏途中で場面が次々と切り替わったり、カメラが自在に動き回るなど、撮影の苦労がしのばれる。

 しかし、結果は無惨。印象がバラバラで統一感がまったくなし。偉大なる失敗作と言うしかない。


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