トイレの花子さん

1995/07/23 丸の内松竹
前半から中盤までは大人の鑑賞にたえるモダンホラー。
最後の最後で物語は馬脚を現わす。by K. Hattori



 なんだか中途半端な映画だなぁ、という印象を持った。小学生を主人公にしたキッズムービーとしては快活さがないし、ホラー映画としては反則が過ぎる。この映画で描かれているのは子どもたちの〈いじめ〉問題だが、いじめを描いているにしてはまだまだ描写が生ぬるい。結局、子どもたちの間に広まるオカルティックな噂、連続殺人、いじめ、などの要素が互いに固く結びつくことなく、散漫な構成になってしまっている。僕が思うに、いじめという身近で切実な現実の問題は、連続殺人というやや非日常的な恐怖と手を結ぶことができないのではないだろうか。片や心理的な疎外感にともなう恐怖であり、片や物理的な暴力に対する恐怖ですからね。恐怖のポイントが違う。両者の恐怖がシンクロすると、身も凍る究極の恐怖になりそうですが、この映画でふたつの素材は不協和音を起こしています。

 小学生のいじめという素材を映画に持ち込むこと自体は、タイムリーな企画でアイディアとしては悪くない。ただ、いじめられる対象が転校生の水野冴子と坂本なつみのふたりに振り分けられたことで、いじめの残酷性もいじめられる側の疎外感も薄まってしまった。いじめの恐怖を本当に描くつもりなら、いじめられる側はひとりに限定して、もっと徹底的にいたぶるべきなのだ。ま、その場合正視に耐えない凄惨な状況になることは目に見えているが……。

 仮に現在の人物配置のままだとしても、水面下でつながる冴子となつみのシンパシイのようなものも、もう少したっぷり描いて欲しかった。今のままでは拓也をはさんで一方は同級生、一方は妹というだけではないか。なつみが毅然と言い放つ「わたし、心にきざんだから」という台詞はかっこいいが、冴子となつみの関係が希薄なので、この台詞が宙ぶらりんになっている。

 ホラー映画としては、本来最後まで秘密にしておくべき殺人者の姿を途中で見せてしまうのが反則だろう。これでは終盤のサスペンスが盛り上がらない。また、この殺人者像も大きな疑問を残す。なにしろこの男、学校で飼っているヤギの首を一撃で切断する剛胆さを持ってながら、小学生と取っ組み合いをして組み伏せられると言う腕力のなさを暴露する。目撃者の存在を恐れることのない猪突猛進型と見せかけて、最後に周りを取り囲まれるとすごすご後ずさりしてしまう情けない奴なのだ。物語の展開に合わせた、ご都合主義的犯人像には笑ってしまう。

 タイトルにも顔を出す〈トイレの花子さん〉だが、彼女の登場も唐突なんだよなぁ。とりあえずここで物語としての帳尻を合わせました、と言わんばかり。登場に向けた伏線がなくはないんだけど、それが現れたときにはたと膝を打つ快感がない。全体にぶよぶよした印象しか残らない映画だった。


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