元禄忠臣蔵
(前後編)

1995/10/06 松竹セントラル3
セットや装束に厳密すぎるほどの考証を施した溝口健二監督作。
博物館の展示物を見ているような気分になる。by K. Hattori



 博物館みたいな映画。とにかく、時代考証だけはやたらと正確。セットも衣装も超豪華。今は絶対にこんな映画作れません。松の廊下を全部再現してしまったというので有名な映画ですが、お馴染みの刃傷シーンは冒頭の10分ぐらいしかない。なんと豪華な使い方。しかも、大がかりな建築セットはここだけではないのだから、ちょっと目眩がするぐらいだ。とにかく、ありとあらゆるところに金がかかっているのが、ありありとわかる。これがカラーだったらすごいんだけどなぁ。白黒の古い映画なので、ディテールがつぶれているのが残念無念。

 この映画の特徴は、豪華なセットともうひとつ、忠臣蔵でお馴染みの討ち入りシーンを大胆にも割愛してしまったことにある。忠臣蔵ファンにとってはいささか物足りないかもしれないが、これによって討ち入り前日に大石が主君の未亡人宅を訪れるシーンから、未亡人が大石の決意と討ち入りの事実を知るまでが直接つながり、劇的な効果を生み出している。ただ、これはあくまでも「劇的」な効果であって、「映画的」な効果ではない。僕はやはり物足りないように感じた。

 この映画の大石内蔵助は、主君内匠頭切腹後、直ちに吉良上野介を討つことを決意している。そこには一片の迷いもない。ただ、内匠頭がなぜ刃傷に及んだのかという原因が省略されているため、僕にはいささかこのくだりが釈然としないのだが、この映画が作られた戦時中には、人々の間で「忠臣蔵」という芝居がまだ生きていたのでしょう。だからこそ、刃傷事件の前提となる上野介の意地悪を省略してしまうことが出来るのでしょうね。

 原作の舞台劇がそうだったのかもしれないが、芝居のテンポがやたらとスローモーなのが気になった。それに加え、この映画を貫いているのは、一種の滅びの美学みたいなものなのですね。憎い仇に一矢報いよう、一泡吹かせよう、そのために自分たちの命を落としても惜しくはないという、極めて限定されたつかの間の反撃。この映画が作られた1941年はくしくも日米開戦の年にあたり、まさかこれと同じような感性で真珠湾に奇襲攻撃をかけたのではあるまいかと思うと、ちょっとゾッとします。義士たちがはじめから自分たちの死を覚悟していたように、赤穂浅野家の再興などはなから念頭に入れていなかったように、ただひたすら「長年の恥辱をはらすために暴力による復讐を遂げる」ことのみを目的に、当時の日本は太平洋戦争に突入したのではあるまいか。この映画を観ると、そんな気がしてならない。

 同じ前進座出演の映画でも、山中貞夫の『人情紙風船』は映画として見応えのある作品だった。『元禄忠臣蔵』はどこまでも時代考証と美術セットだけの映画であり、物語は今さらどうでもいいと思う。


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