あした

1995/10/09 日比谷映画
センチメンタルな死者との再会物語にどうも乗れなかったが、
原田知世の使い方はよかった。by K. Hattori



 この手の映画は好き嫌いが大きく分かれると思うのです。僕は今回のこの映画を受け付けることが出来ませんでした。大林宣彦はドラマがセンチメンタルに流れがちな監督で、それがドラマの進行とうまくバランスがとれたときに、とんでもない傑作をものにしてしまう人です。『転校生』『時をかける少女』『異人たちとの夏』『ふたり』などは、ベタベタに甘いセンチメンタリズムと物語がうまくかみ合って、観客を思わず物語に引き込んで行く。だが、この『あした』という映画の甘さは、その甘さが毒々しすぎるのです。自然な甘さではなく、人工甘味料の味がする。これを美味だと思うのは、ただ甘いものが好きな子どもだけでしょう。

 中身は今までの大林映画と同工異曲。死者と生者の交歓と別れというテーマは、そのまま『異人たちとの夏』や『ふたり』からの引継です。船を見送る少女が「さようなら」と叫ぶ場面は、『転校生』からの引用でしょう。はっきり言って、ここにはどんな新しさもない。ただエピソードの数を増やしただけ、詰め込んだだけの芸のなさ。やくざの親分を殺すの殺さないのというドタバタ劇も、田舎芝居のような騒々しさで、全体の中でこのエピソードが果たす役割が希薄です。映画的な面白さを感じさせる、ゾクゾクするような映像というのがほんの数カ所にあるけれど、それが映画を救うにはいたっていないように思えます。

 この映画は各エピソードがそれぞれ小さな世界を作り、それぞれがパッチワークキルトのようにひとつの大きな世界を形作るはずだったのです。ところが、完成した映画では小さな端切れが端切れのままで、全部がつながって行かない。端切れを寄せ集めただけでは、パッチワークは完成しません。 結局この映画では、登場する人物たちを呼び寄せる「呼子浜」という場所の吸引力が、観客にうまく伝わっていないのではないでしょうか。常識では信じられない、超自然的な現象が起こっても不思議でないと思わせるだけの力が、この呼子浜からは見えてこない。この映画の中では、誰もがなんの疑念も持たずにこの浜辺に集う。なぜ誰も疑わないのか。それは、愛するものに一目会いたいという気持ちだけでは説明の付かないものだと思うのです。

 こうした大前提の不在が、この映画を嘘にしてしまっている。全編にわたるセンチメンタルな味付けも、これをごまかしきれない。キャラクターごとのエピソードを掘り下げず、回想シーンをほとんど入れず、ただひたすらひとつの場所に集まった人々を描くスタイルは、映画よりむしろ舞台劇にした方が似合っているかもしれません。そうすれば、ひとつの空間に凝縮して行く人々のドラマを、もっと濃密に描くことが出来たのではないでしょうか。


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