カストラート

1996/01/23 シネマ有楽町
去勢することでソプラノを維持した男性歌手カストラートの物語。
合成されたカストラートの声には美しさを感じられなかった。by K. Hattori


 かつてヨーロッパのオペラ界に公然と存在した、カストラートと呼ばれる去勢された男性歌手たち。少年期のソプラノ音域をキープしたまま、力強い大人の声帯を持つその歌声は、ゆったりとした中音域から一気に高音域まで駆け上がり、夢のような天上の音楽を奏でる。男や女といった俗世のセクシャリティーから切り離され、ただひたすら音楽のために生きることを強いられる歌手たち。この映画はそんなカストラートの歌手ファリネッリを主人公に、彼の栄光と苦悩の生涯を描き出す。……とまぁ、これが映画紹介的な書き方である。

 カストラートを描くにあたり、映画制作者たちは今は失われて久しいカストラートの歌声をいかにして再現するかに腐心したようだ。カウンターテノールとソプラノをデジタル合成して作った声は労作だが、残念なことにこれが美しい歌声かというと良くわからない。この映画の中では、主人公ファリネッリの声以外に比較の対象が存在しないため、カストラートの声を初めて聴く現代の観客には、それが一流なのか美しいのかよくわからない。

 主人公以外のカストラートは、冒頭で自殺してしまう若い歌手、街の見せ物舞台の上でトランペットと勝負して負ける歌手ぐらいしか登場しない。カストラート以外の、いわゆる普通の歌手も登場しない。合成されたファリネッリの声は今の感覚で聴くと明らかに不自然だが、その不自然さが美に通じるものなのかは登場人物たちの台詞で説明されているだけなのだ。当時の音楽界には無数のカストラートがいたはずで、その中には一流も末流もいたのだろう。ファリネッリはその歌声でヨーロッパを征服した一流中の一流だが、それも人並みや末流の歌手と比較しなければその一流ぶりは納得できないのだ。

 物語は天才歌手ファリネッリと二流の作曲家である兄との葛藤を核にして進んで行くのだが、両者の関係はまるで『アマデウス』のモーツァルトとサリエリの二重写し。途中で一流作曲家ヘンデルが登場するくだりになると、歌手の兄とヘンデルの関係がまたまたサリエリとモーツァルトにダブってくる。屋根裏で苦心惨憺作曲している兄の楽譜を、ヘンデルが即興でどんどん書き足して行く場面なんて、似たようなシーンが『アマデウス』にもあったんじゃないだろうか。

 映画『アマデウス』は音楽場面も本物の一流だったが、『カストラート』は音楽場面がデジタル合成の偽者なので迫力は半減。楽曲も半分は二流どころの作品で魅力薄。ドラマ部分は舞台劇でもあった『アマデウス』の方が当然面白く、『カストラート』はその二番煎じの印象を免れない。


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