ダイヤルMを廻せ!

1996/04/07 銀座文化劇場
舞台劇の映画化だけあって、脚本はよく練られている。
舞台と映画の違いが演出に現れているのが面白い。by K. Hattori


 この映画はずいぶん前にテレビの深夜映画で見た記憶があって、映画を観ている内に物語の粗筋はほとんど思い出すことができた。したがって大詰めのトリックやどんでん返しなどに驚くことはほとんどなかったのだが、逆に主人公たちをじりじりと追い詰めて行く過程がどのように演出されているかが興味深く観察できて面白い。

 原作は当時有名な舞台劇だそうだが、そうと知って映画を観ると、確かに物語はほとんどが同じ室内だけで進行し、カメラはほとんど部屋の外に出ない。アパートの一室という設定なのでクレーンを使った派手で華麗な俯瞰撮影もほとんどなく、人物はひとつの部屋の中を横に移動するばかりで非常に地味な絵作りになっている。

 資産家である妻と結婚した夫が、妻に愛人がいることを知って妻の殺害を企む物語。前半の見どころは学校の同窓生をまんまと暗殺者に仕立て上げるくだりだろう。言葉巧みに部屋の中に誘い込み、飴と鞭をちらつかせるなめらかな弁舌で、見る間に相手をその気にさせてしまう。用意周到な殺害計画を、ひとつひとつ得意げに説明してみせる冷酷さ。「すべてが終わったら口笛を吹け。それを聞いたら私は電話を切る。言葉は要らない」という冷静な台詞の中に潜む、煮えたぎる嫉妬と欲望の炎。

 この場面は装置が一度にすべて見渡せる舞台の上で説明する方が、はるかに観客にとってわかりやすい物になったに違いない。ヒッチコックは計画の説明よりむしろ丹念に指紋を消して歩く男の姿を丁寧に描写することで、この男の練りに錬った計画の完璧さを強調する。この場面に比べれば、暗殺者にグレース・ケリーが襲われる場面など二流の活劇である。むしろ首を絞め上げるタイミングがなかなか合わない部分の黒いユーモアが、殺人という行為の前触れとしてこの場面を引き立てている。

 物語は全体が緻密に構成され過ぎているがゆえに、終盤ケリーの愛人である推理作家が夫に身代わりになれと迫る場面が弱い。これは最初から無茶な要求で、ぜんぜん現実味がないのだ。この愛人は最初から最後まで何のためにここにいるのかよくわからない人で、自分の作った物語を夫と警部に一笑にふされて終わりだ。単なるトラブルメーカー。本来はもっと活躍しなければならないはずの人なんだけど、映画化された段階でこうなったのだろうか。

 終盤のクライマックスは、カギを巡るトリックが一気に暴かれる部分。警部が窓の外の様子を逐一報告するのだが、これは舞台劇風のサスペンス手法。映画では警部の報告と並行して、同じ場面を絵として観客に見せてしまう。これで舞台劇のサスペンスを消しておいて、夫が室内に入ってきたときの夫側のショックを際立たせる。これが映画なんですねぇ。


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