ユリシーズの瞳

1996/04/07 シャンテ・シネ3
スクリーンに映し出される映像による睡眠薬。とにかく長くて眠い。
よしにつけ悪しきにつけ、アンゲロプロス映画の集大成。by K. Hattori


 ギリシャの巨匠テオ・アンゲロプロスが描く、堂々3時間におよぶ映像による叙事詩だそうだが、僕には3時間延々期待させられ続けたあげく、結局何も起こらなかったという拷問にも等しい3時間だった。僕は眠気に打ち勝つために、手の親指と人差し指の間にある「眠気を覚ますツボ」をペンでぐりぐり刺激し続けていたんですが、そこまでする映画じゃなかったかもしれない。おかげで映画を観た後、手が痛くなってしまっただけで、心には何も残らなかった。まったく骨折り損だ。

 この監督の代表作は『旅芸人の記録』ということになっているが、あいにくと僕はまだこの映画を観ていない。僕がアンゲロプロスの映画に出会ったのは『霧のなかの風景』からで、この映画は間違いなく心にしみる傑作。ドイツにいるという父親を求めて、幼い姉弟がギリシャからバルカン半島を北上して行く物語。子供たちの出会う、時に優しく時に過酷な旅を綴ったロードムービーでした。

 今回の『ユリシーズの瞳』は、絵の作り方がどれも『霧のなかの風景』や『こうのとり、たちずさんで』の焼き直しにしか見えなくて、新鮮味が感じられない。例えば巨大なレーニン像をクレーンでつり下げる光景、船が川の上の国境でサーチライトに照らされる場面、ラストシーンの濃霧など、どれも『霧のなかの風景』そのままだ。

 別に同じようなシーンだから悪いと言うわけではない。それは監督の個性だし、作られた絵がそれで美しいのならそれで構わないと思う。ただ『霧のなかの風景』や『こうのとり、たちずさんで』では、絵のように美しい同じような風景の背後でも、ゆっくりと物語が動き続けている感覚が濃厚だった。

 『ユリシーズの瞳』は現実と幻想、主人公の過去と現在、主人公が追い求める幻のフィルムの撮影者であるマナキス兄弟のエピソードなどが複雑にからまりあって、ひとつの大河を作り出している映画だ。全編引用と象徴と隠喩に満ちた絵作りがなされていて、主人公の周辺に現れる女性を全てマヤ・モルゲンステルンが演じた意味もきっとどこかにあるのだろうし、最後に現像されたフィルムを前に主人公が語る台詞などにも何か意味があるのだろう。あいにくと僕にはさっぱりわからなかったのだが……。

 土台にどっかりと根を下ろしている「歴史」の存在を感じさせるのはいつものことだが、今回はアンゲロプロスの視線が「国境」より「民族」に向いているような気がした。英語をしゃべるギリシャ系アメリカ人の映画監督が出会ったのは、国を抜け出したいと望みながらむざむざと殺されるサラエボの若い女。彼女を含む映画技師の一家が霧の中で惨殺される場面は、完全に動きの止まった映像がかえって衝撃的だった。3時間の中でこの5分だけは凄い。


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