魅惑の巴里

1996/07/01 銀座文化劇場
明朗快活体育会系好青年ジーン・ケリーが女たらしとは解せない。
と思っていたら、やはり純情な好青年でした。by K. Hattori


 シネスコのワイド画面を存分に使ったショー場面は素晴らしいでき。音楽はパリが大好きだったコール・ポーターで、これが彼最後の映画音楽になった。スタンダード曲はないが、どの曲も素敵です。ジーン・ケリーを巡る3人の女たちの『羅生門』風ミステリーも趣向を凝らしたものだが、謎解きとしては嘘があると思う。ミッチー・ゲイナーの証言が聞けなかったのは、構成としては手落ちなんじゃないのかなぁ。

 タイトルは『魅惑の巴里』だが、物語自体はヨーロッパをまたにかけて活躍したジーン・ケリー演ずる芸人と、「レ・ガールズ」と呼ばれる3人の娘たちの物語だ。原題は「Les Girls」。チーム解散後に仲間のひとりが書いた回想録の記述を巡り、それぞれの立場からの「真相」が語られる法廷ドラマなんですねぇ。証言の内容がそのまま回想シーンとして挿入されて行くのは、黒澤明の『羅生門』と同じ。違うのは最後に幽霊が出てこないことと、一応の真実が現れてハッピーエンドを迎えることかな。でも、観客には結局どこまでが本当でどこからが嘘や勘違いだったのか、釈然としないところは残る。

 劇場のステージと楽屋裏、3人娘たちが暮らすアパートの部屋とその周辺、法廷とその周囲が物語の舞台だが、美術セットがどれもよく考えられたデザインになっていた。舞台裏の雰囲気は『オール・ザット・ジャズ』並みの臨場感だし、アパートの部屋も手狭な感じを出しつつ視点によって表情の変化を生み出すように上手に設計されている。同じセットを使っているのに、エピソードごとに部屋の雰囲気まで違って見えるんですよね。

 予告編を見たときは、ジーン・ケリーが美女3人を手玉にとってうまいことする話かと思いましたが、エピソードが進むにつれてケリーがどんどん「いい人」になって行くのがおかしいです。最初の証言に登場するプレイボーイぶりと、最後の証言に登場するはにかみ屋の青年とのギャップがたまらんなぁ。

 アメリカ娘のミッチー・ゲイナー、フランス娘のタイナ・エルグ、すましたイギリス女のケイ・ケンドール。三者三様の個性がぶつかり合って、なかなか見ごたえのあるものになっています。彼女たちのショー場面がこの映画一番の見もので、ジーン・ケリーはあまり見せ場がない。彼のダンスシーンで、目立つものはほとんどありません。ショー場面自体も物語の進展とともにだんだん数が少なくなってきてしまうのが残念。エピソードも最初のタイナ・エルグの話が一番華やかで、最後のミッチー・ゲイナーの話が一番地味でした。

 MGM映画末期の作品。内容的に見ごたえのあるものではあるけれど、僕がMGMミュージカルに求めるのはこういう高尚なものではないんだよなぁ。この映画も十分に楽しいんだけど、楽曲のひとつひとつをもっとたっぷりと見せてほしかった気がします。


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