鴛鴦歌合戦

1997/01/11 文芸坐ル・ピリエ
マキノ正博監督が昭和14年に撮り上げた日本で最初のオペレッタ映画。
一部でカルトムービーになっているというのも納得。by K. Hattori



 活動屋マキノ正博が昭和14年に撮り上げた、日本で最初のオペレッタ映画。(ミュージカルにあらず。)主演は千恵蔵だが、これは名目上の話。実際の主役は志村喬だと、マキノ雅広の自伝「映画渡世」(ちくま文庫)には書いてある。本来は千恵蔵主演で、やはりオペレッタ風の映画『彌次喜多・名君初上り』を撮る予定だったのだが、千恵蔵の病気で急遽企画を変更し、わずか4日間で脚本・作曲・作詞をでっちあげた作品だという。そう言われると、確かに千恵蔵主演にしては彼の活躍が少ない。ほとんど歌わないし、立ち回りらしい立ち回りも出てこない。「映画渡世」によれば、この映画では千恵蔵の登場シーンを2時間で撮ってしまったそうだ。

 ついでに本から引用してしまいますが、この映画における志村喬の歌はなかなか見事なもの。共演のディック・ミネがいたく感心して「志村さん、テイチクに入りなさいよ」と強力に推して、レコード会社の方でも是非という話だったようですが、志村本人が全然本気にしなくてこの話は流れたそうな……。ま、この「映画渡世」という本は、マキノ監督の勘違い・思い違い・思い込み・ほら話、一切合切を含めて「マキノ節」として許してしまっているものですから、証言としてどのくらいの信憑性があるのかは不明。甚だ怪しい一次資料です。

 昭和14年と言うと、日本は中国で戦争をやっています。ノモンハン事件のあった年です。2年前に招集された山中貞雄が、中国で戦病死しています。ヨーロッパではドイツがポーランドに進入し、第二次世界大戦が勃発しています。2年後の日米開戦に向けて、戦時色が一層強まっていた時期です。その一方で、翌年の紀元二千六百年(皇紀)を記念して、東京でオリンピックを開く計画が進められていました。毎日新聞社の飛行機が世界一周飛行に成功し、二葉山の連勝が69連勝で止まった年でもあります。暗い世相と、明るいニュースが混沌としていたのが昭和14年。『鴛鴦歌合戦』という映画は、そんな時代に作られたのです。

 物語は他愛ないものですが、歌また歌でとにかく楽しい。ミュージカルコメディの定石ですが、こうした話は単純な方がいいんです。人物も中心になる数人を除けば、極めて単純なキャラクターになってます。この単純さで凝った芝居をしようとすれば失敗ですが、これは話がシンプルだから、逆に人物造形の単純さが生きている。骨董品マニアの歌う殿様や、千恵蔵扮する浪人に恋する商家の娘などは、これ以上人物像を膨らませると生臭くなって嫌味です。商家の娘の取り巻き男性諸氏は、完全にコーラス隊だと割り切った役回り。これもいいですね。

 全編にさまざまな工夫をしているのも見どころ。音楽に合わせた乱闘という、まるで『ウエストサイド物語』のような場面も見られます。最後はカーテンコールまで見せてくれるサービスぶり。当時の日本映画が、いかにモダンな感覚を持っていたかがよくわかります。


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