デッドマン・ウォーキング

1997/02/01 銀座シネパトス2
スーザン・サランドンとショーン・ペンは熱演だが映画は凡打。
バランスを重視するあまり充実感に欠ける。by K. Hattori



 主演のスーザン・サランドンとショーン・ペンの熱演が話題を呼んだ作品。陰惨なカップル殺人事件と、その犯人に対する死刑執行という、極限の暴力を描いているわりには、映画は静かなたたずまいを見せる。監督のティム・ロビンスが過不足なくそつのない演出を見せていて、それがかえって僕には不満だ。ここまで冷ややかに事件を描くことで、逆に観客の中に熱い何かが生まれるというのであればまた話は別だが、この映画はすべてを観客に預けて考え込ませてしまうだけ。これはこうした映画を作る側としては、ちょっと手を抜いていると思うぞ。僕はそこに敖慢な態度さえ感じてしまうのだよ。

 僕はこの映画に登場する死刑囚にも感情移入できなかったし、それに付き添う尼僧にも感情移入できなかった。死刑囚の家族は身につまされないし、子供を殺された家族も同情できない。原因は演出にあって、このあたりの描写で芝居が熱っぽくなると、カメラが少し引いてしまうんだよね。この映画は最初から最後まで、そうした形で映画の中に観客が参加することを拒むところがあります。観客はこの映画の中の誰かと一体になって、この映画に参加することは許されない。映画の中で起こっている事態の傍観者になって、事態の推移を見守らねばならない。そんな突き放した態度が見えるのです。

 もちろん、そうした演出が一概に悪いわけではないが、この映画の場合は「全体をバランスよく描こう」という意図が見え見えで、ちょっと鼻につく感じさえする。こうして冷淡なほどの演出を施しながら、犯行現場の再現や死刑執行場面では、ヘンに甘ったるい演出を見せるのが嫌らしい。処刑室の中で死刑囚が薬物を注入される場面に、カップル殺しの場面をオーバーラップさせるとか、まさに息絶えんとする死刑囚の姿を見守るように、処刑室のガラスに殺されたカップルの顔が映り込むところなど、その趣味の悪さに「うへ〜」って感じでした。演出している本人は、さりげないつもりなんだろうね。

 ティム・ロビンスは各誌のインタビューなどでも、自分が死刑反対論者であることを隠そうとしてません。にも関わらず、映画はそれを声高に叫んだりすることがない。映画は両論併記のまま、観客の考える余地を残して終わる。でも、これは本当の意味での「両論併記」じゃないんだよ。両論のバランスを取るために、監督は自分の「死刑廃止論」を後退させているのです。自分の言いたいことを十分に述べて、その上で相手にも言いたいことを言わせるのではなく、自分の言いたいことに蓋をすることで、相手の釈明の機会を奪ったのです。

 本当は力を入れて描きたかった死刑廃止のメッセージを隠した結果、この映画はどこにも力のこもっていない線の細い映画になった。命の代償という重いテーマを扱っているにも関わらず、観終わった後に残る印象は重くならない。それは映画の中に救いがあるからではなく、演出に力が入っていないからなのだよ。落ち込んだ尼僧を子供が励ますオチも、これでは生きてこない。


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