となりのトトロ

1997/03/09 高田馬場東映パラス
精密に描き込まれた田舎の風景が観客の心の中の記憶を刺激する。
ディテールの積み重ねがファンタジーの基本です。by K. Hattori



 物語自体は「よくできた児童文学」というレベルのものだし、テレビでも何度か見て筋立ても知っているはずなのに、なんで改めて劇場で観ると涙が出てしまうんだろうか。かつて日本のどこかにあった風景、自分が幼い頃に見た懐かしい景色が、観る者の郷愁を誘うのだろうか。確かに道具立ては昭和30年代の農村風で、ディテールもしっかりと描き込まれている。雨になるとぬかるむ未舗装の道、水溜まり、ボンネットバスと女の車掌さん、電報、呼び出し電話、田圃のあぜ道、家族総出の田植え、溜め池、タイル張りの風呂、井戸のポンプにさす呼び水、縁の下のラムネの瓶、木造校舎、自転車の三角乗り、勝手口、雨戸、蚊帳と蚊遣り、下駄、どんぐり。かつては身の回りにありふれていたこうした物の内のどのぐらいが、今は失われてしまったんだろうか。

 この映画に登場する農村風景があまりにも生々しいので、僕たちはこうした風景が日本のどこかにまだ残っているような錯覚を持ってしまう。でも多分こんな風景は、もう日本中どこを探したって残ってないのです。長靴でじゃぶじゃぶ水溜まりに踏み込んで行くことも、重いポンプを漕いで井戸から水を汲み上げることも、日常生活の中には見られなくなってしまった。20年ぐらい前までなら、自分の家や友達の家でごく普通に見られたものが、身の回りからどんどん消えてなくなっているのです。

 もちろんなくなる物がある一方で、家の中に新しく登場したものもたくさんある。この映画の中にはテレビが登場しない。当然テレビゲームもない。家にはクーラーがない、アルミサッシがない、電話も各家に備わっているわけではない、自動車もほとんど走っていない。それでも、この映画に描かれている世界はとても豊かに見えるんですね。少なくとも子供の視線から描かれたこの映画の中では、そこがある種の理想的な風景になってます。

 この映画を観ていると、草の上を渡ってくる風の匂い、夕立前のひんやりした空気の肌触りなど、昔自分が自分の五感で体験した感覚が丸ごとよみがえってくるのです。何十年も身体の中に眠っていた子供時代の記憶が、映像に刺激されて一気にうごめき出すのです。それが、この映画の生み出す「郷愁」の正体です。今の子供たちは今から20年後に、どんな風景を見て郷愁を感じるんでしょうか。少なくとも、コンクリートブロックで整備され、アスファルトでくまなく舗装された道路では、トトロにもネコバスにも出会えそうもありません。

 この映画を観て単純に「昔の方がよかった」なんて言うつもりは僕にはない。僕は何だかんだ言っても、現代の豊かな生活を享受している。僕にとって、現代はそこそこ快適だし便利です。ただそうした快適さや便利さは、子供たちにとっても、同じように快適だったり便利だったりするんだろうか? 大人の考える便利さを、子供たちに押し付けていないだろうか? 自分の子供たちの世代のために、日本のどこかにトトロ的な風景を残しておいて欲しいと願うのは、すごく身勝手な話でしょうか?


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