蜘蛛巣城

1997/04/21 並木座
「マクベス」を戦国時代の日本に翻案した昭和32年の黒澤映画。
ラストシーンは1度観たら忘れられません。by K. Hattori



 シェイクスピアの「マクベス」を日本の戦国時代に翻案した、黒澤明の昭和32年作品。黒澤時代劇としては小粒の印象なんだけど、改めて観るとセットはすごく豪華だし、騎馬やエキストラの数も半端じゃない。霧に包まれた丘の上に、滲み出すように登場する堂々たる蜘蛛巣城は、江戸時代の城のように権力の象徴として建てられたものではなく、近隣大名との実戦を目的とした軍事要塞だ。背の低い黒構えの城は、外部に対してぴったりと門を閉ざし、その中で繰り広げられている人間たちの欲望を包み込む。この蜘蛛巣城を富士山麓に実物大のセットで作ってしまったのだから、当時の黒澤がいかに大きな予算を与えられていたか、当時の日本映画界にいかに資金があったかがわかる。

 スケールの大きなセットのわりに印象が「小さい映画」になっているのは、原作がシェイクスピアの舞台劇だからでしょう。主要なドラマはすべてステージセットの上で演じられる「室内劇」なのです。ロケーション撮影を駆使したシーンは、室内と室内をつなぐブリッジの役割しかはたしていない。そのロケーション撮影にしても、登場するのは蜘蛛巣城の外観や、魔物の出る蜘蛛手の森ぐらい。映画には隣国の大名の名や、いずれは天下を狙う云々という台詞もあったりしますが、基本的に蜘蛛巣城という小城を巡る攻防戦に終始し、その外側に広がる広い世界を感じさせません。この映画に描かれているのは、内部で閉じたすごく小さな世界なのです。

 こうした小さな世界の中で人間の欲望がぶつかり合うことで、映画は窒息寸前の緊迫感を生み出しています。小さな世界のちっぽけな権力のために、主人公は主君を殺し友を裏切る。自分の器以上の地位を手に入れた主人公は必要以上に懐疑的になり、最後は自滅して行くのです。能の動作や音楽を借りた演出も、濃密な世界を描き出すのに恐ろしいほどの効果を生んでいます。山田五十鈴の冷酷さと狂女ぶりとのコントラスト。亡霊になった千秋実のぼんやりとした表情も、背筋が寒くなります。

 血の匂いと死臭ただよう陰惨な映画ですが、登場する殺人の数はじつに少ない。合戦の場面はありますが、合戦の描写はないし、主君殺しが描かれていますが、死は血塗られた槍で表現されるのみ、盟友の暗殺は、亡霊の登場で済ませている。暗殺の成功を報告に来た使者を殺す場面も、きれいに左右対称にデザインされた画面が血生臭さを消しています。

 こうした「抽象的な死」がずっと続いていたからこそ、主人公の死を直接見せるクライマックスは壮絶なのです。裏切った味方の矢を全身に受け、恐怖のあまり半狂乱になる主人公。逃げようとする目の前に次々と矢が射られる中、板塀に突き刺さった矢を手で折りながら、声にならない悲鳴をあげつつ逃げ惑います。これは黒澤が『酔いどれ天使』や『羅生門』で描いてきた「勇敢な男のみっともない死にざま」の集大成でしょう。それにしてもすごい迫力。矢が空気を切り裂く音がすごく恐いのです。


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