愛情

1997/04/25 イマジカ・第3試写室
昭和31年の日活作品。原作は石坂洋次郎。監督は堀池清。
浅丘ルリ子の美少女ぶりにうっとり。by K. Hattori



 昭和31年の日活映画。原作は石坂洋次郎。監督は堀池清。主演は長門裕之と浅丘ルリ子。思春期を迎えた少年少女の淡い恋心や、性の目覚めを描いた文芸作品だが、主役たるべき長門が無骨すぎて、思いを寄せる少女との恋に悩む少年に見えないのは欠点。話の前提として、長門裕之は県下随一の秀才なのだ。線の細い神経質なガリ勉タイプの秀才だが、浅丘ルリ子とのデートで勉強に支障が出ることを誰も心配していないところを見ると、周囲は「見るからに頭がよさそうな少年」だと受け止めているのでしょう。でも映画で観る長門裕之は、「おいおい、そんなことしてて勉強は大丈夫なのかい」と思わず心配してしまうような風体。とても勉強ができそうなタイプには見えないのです。これは配役の失敗でしょう。

 長門裕之が浅丘ルリ子に拒絶され、それがきっかけで事の真相がすべて露呈するクライマックスから終盤にかけての展開も、どろどろと渦巻く互いの心理が画面からは見えてこない。ただ単に「あれはお姉さんでした」でお話を終らせてしまっていて、若い二人に覆い被さる巨大な試練という感じがしないんです。お姉さんが長門裕之に気があることは、勘のいい観客なら映画の序盤からわかっていること。夜中の火事の場面で、大方の観客は二人の間に何かがあったことぐらい薄々ではあっても勘付いているはず。浅丘ルリ子が同宿のお妾さんの部屋に、姉の行動を確認に行く場面なども、本来は必要のないシーンです。逆に言えば、こうしたエピソードの挿入で、映画全体が「誰にでもわかる」親切なものになっている。

 今観ると、いくらなんでも16歳の女の子と受験生の男の子を同じ部屋に泊めてしまうのは乱暴だと思う。ましてや二人が互いに好意を持っていることを知りつつ、最後の日に二人を同部屋に泊めるのは暴挙です。何か間違いが起こるに決まっているではないか! 自分と関係のある少年のもとへ妹を送り届ける姉の行動が、僕にはどうも理解できなかった。一種の罪滅ぼしのつもりだったのかな。最後まで彼女の行動が飲み込めないのは、結局、人物の造形が曖昧だからではなかろうか。

 この映画の唯一にして絶対の宝は、はつらつとした浅丘ルリ子の美少女ぶりでしょう。彼女の一挙手一投足、すべての表情がきらきらと輝いています。物語も全体を俯瞰すると前記したような欠点があるのですが、単純に浅丘ルリ子の視点から見ると、それもあまり気にならない。むしろ自然な展開かもしれません。こんな美少女がそばでうろうろしていれば、どんな堅物の男でも心穏やかではいられませんよ。浅丘ルリ子は前年の『緑遥かに』がデビュー作ですが、その頃に比べるとぐっと大人っぽくなって、思春期の少女が持つ色気を感じさせます。

 この日は『丘は花ざかり』同様、この『愛情』もニュープリントで上映されるはずだったのですが、古い可燃性ネガをプリントするには膨大な費用がかかるとかで、日活の倉庫から引っ張り出した不完全なフィルムの上映になってしまいました。長さも少し短いそうです。


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