MISTY
ミスティ

1997/05/10 松竹セントラル1
豊川悦司、天海祐希、金城武共演で『羅生門』を再映画化。
女学生みたいにオセンチな真砂像。by K. Hattori



 わからねえ……さっぱりわからねえ。こんな不思議な話は聞いたこともねえ。なにがわからねえって、平成9年の今、こういう形で芥川龍之介の「薮の中」を再映画化する理由がわからねえ。(『羅生門』ふうに)

 かれこれ半世紀近く前、同じ原作から黒澤明が『羅生門』という映画を作っている。一度映画化された原作を再映画化してはいけない法はないが、新たに1本の映画を作るからには、テーマなり手法なりの部分で、現代でなければ表現し得ない何かを盛り込むべきではないのか。はっきり言って、『MISTY』という映画にはどこにも新しさがない。モノクロ・スタンダードの『羅生門』が、カラー・シネマスコープになれば、それで新作映画と言えるのか。僕はそんなもの、新しさとは認めない。モノクロがいけないなら、ターナーあたりにお願いして、『羅生門』のカラーライゼーション版を作ればいいのだ。

 黒澤の『羅生門』には、芥川の原作「薮の中」を尊重した上に黒澤なりの解釈がある。でも『MISTY』に、そうした原作に対する敬意はない。それも当然だろう。観てすぐわかることだが、この映画の原作は芥川龍之介ではなく、黒澤映画『羅生門』なのだ。森の中の移動撮影、木漏れ日、銀レフを使ったコントラストの強い画面、太陽を直接カメラに収める構図。これらは『羅生門』で黒澤明と宮川一夫が生み出した技法だ。『MISTY』はこうした手法を丸々踏襲している。人物像も同様だ。多襄丸を演じた豊川悦司の芝居は、三船敏郎の不細工なコピーだし、天海祐希の真砂は、京マチ子の芝居を下敷きにしている。金城武扮する武弘は、森雅之に比べると貫禄負けしていて、ぜんぜん比較にならないけどね……。

 『羅生門』は原作どおり多襄丸・真砂・武弘の証言が終った後、これぞ真相という目撃者の証言を加えた部分が映画のオリジナルになっている。『MISTY』でも3人の証言はほぼ原作どおりで、その後描かれる「真相」が映画のオリジナル。映画に新しさを出すとすれば、もうここしかないという正念場だ。でもこれって、『羅生門』の10分の1も面白くないんだよね。面白くないと言えば、武弘の証言をたまたま近くにいた子供の目撃証言にするのも、つまらない工夫だった。これでは「人間は死んでまで嘘をつく」という原作のニュアンスが生きてこない。死に際に自分を飾っただけじゃないか。

 芥川の原作も黒澤の『羅生門』も、多襄丸が真砂をレイプした後から、各人の証言が食い違ってくる。ところがこの映画では、多襄丸と真砂が関係する前から話が微妙に食い違い始める。そこで行われる性行為の意味が違っているのです。強いてセックスを何度も描くからには、映画のテーマはセックスに関係があるのだろうか。じつはそんなことない。これは単なるファンサービスです。

 真砂は多襄丸に見られていることを承知で武弘に抱かれ、次は武弘の前で多襄丸に抱かれる。だから「二人の男に恥を見せて」という真砂の台詞は最初から嘘だ。単に真砂が変態だったというオチじゃねえの?


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