恋は舞い降りた

1997/06/06 日劇東宝
ハリウッド的なファンタジー映画の小品を目指した脚本を演出が駄目にした。
脚本を読んで出演を決めた出演者たちが気の毒だ。by K. Hattori



 幼い頃母親に去られた心の傷を抱え、他人を信用することなく、人を愛することなく虚飾にまみれた人生を生きてきた、売れっ子ホストの神崎啓一郎。天使の手違いから突然事故で命を失った彼が、再び人間に戻る条件として与えられたのは「不幸な女性を幸せにすること」だった。物語だけをとれば、これはハリウッド映画によくあるパターンのコメディです。

 映画の中に登場するエピソードや描写も、古今のハリウッド映画を手本にしている。玉置浩二演ずる天使は、古典的な名作『素晴らしき哉、人生』や近作『愛が微笑むとき』のそれを思い出させますし、事故で命を落とした主人公が自分の死を知らぬまま幽霊になる描写は『ゴースト』、女たらしの二枚目が罪滅ぼしに地上に送り返されるのは『スウィッチ/素敵な彼女』を思い出させます。こうしたハリウッド映画の設定を日本に移植しようという意図は立派だし、どんどんやればいいと思う。

 僕は映画にオリジナリティなどというものを求めていない。焼き直しだろうがなんだろうが、それがきちんと物語としてこなれていて、しかも面白ければそれで十分満足なのです。だがこの『恋は舞い降りた』はなんだ。エピソードはハリウッド映画から引いていても、演出がぜんぜん駄目じゃないか。最初の5分ぐらいを観ただけで、この映画が駄目だってことがわかってしまった。これは「お話」の問題じゃなくて、「語り口」の問題なんだ。僕はこんな映画を映画と認めない。こんな作品がメジャー系列の大劇場で公開されるようでは、日本映画の将来は暗い。東宝がとっととこの映画に見切りをつけて、『誘拐』を繰り上げ公開するのは大正解だ。

 この映画にはファンタジー映画が当然持つべき、生身の手触りが欠落している。ファンタジーは非日常的な物語だからこそ、日常描写をていねいにして、我々の生活の延長に魔法の世界を見せてくれなければならない。でないとファンタジー映画は、最初から最後まで単なる絵空事になってしまうのだ。この映画では、最初の回想シーンがそもそも駄目。幼い主人公が四つ葉のクローバーを引き抜く場面で、指先に加わる小さな抵抗や、クローバーが引き抜かれるときのプッツリとした手触りを感じさせられれば、この場面は生きてきたのに……。いかにも「小道具係が置いときました」的なクローバーから、観客がどんな魔法を期待できるというのだろう。

 主人公の唐沢寿明と、天使に扮した玉置浩二の会話のテンポの悪さが、僕をひどく白けさせた。なんであの天使はあんなにはしゃいでいるのだろう。唐沢はなんでいつも怒鳴っているんだろう。こんな会話は日常の中ではあり得ない。あり得ない芝居で、あり得ない状況を演じても、そこに観客は感情移入なんてできない。

 不幸なバツイチ女を演じた江角マキ子は思いの他よかった。それだけに、映画のできが残念でならない。最後のオチもずるいんだけど、タイミングよくビシッと決まれば許せる内容。それが決まらないから腹立たしいのだ。


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