チェンバー
凍った絆

1997/07/02 シャンテ・シネ1
家族の背負った歴史を描いた骨太のヒューマンドラマになっている。
字幕の日本語がこなれてなくて話がわかりにくい。by K. Hattori



 「な〜んだ、『デッドマン・ウォーキング』じゃないか」と気がついたのは、映画が終盤に差しかかってから。最初から「どこかで観たような映画だな」とは思っていたのですが、僕は鈍くて、こういう時に「あの映画だ」ということがすぐにはわからないのです。映画の中で、いよいよジーン・ハックマンが処刑されるというギリギリになってから、それが忽然とわかってしまった。別に真似というわけではないのですが、描かれているエピソードが所々で酷似しているのです。例えば、死刑囚であるジーン・ハックマンが犯罪を犯したか否かという部分では疑念の余地がないとか、彼が自分の犯した罪を悔いていないとか、面会の弁護士に向って人種差別的な言葉を平気で投げかけるとか、処刑が近づいてきた時点でようやく人間らしい側面を見せるとか、そんな部分。

 もったいぶって「生命の尊厳」や「死刑制度の是非」を語った『デッドマン・ウォーキング』を、僕はあまり好きになれなかった。この『チェンバー/凍った絆』は物語のアウトラインこそ『デッドマン・ウォーキング』と同じ「死刑囚が処刑に至るまで」だが、そこで語られているテーマはぜんぜん違う。これが「真似じゃない」と言える根拠です。ここで描かれているのは、ひとりの人間が負わされてしまった歴史の重さであり、家族の中に流れる血の問題であり、積み重なり凝り固まった憎悪にどう決着をつけるかという問題です。映画の最後にクリス・オドネル演ずる死刑囚の孫は、「亡霊は死んだ」と言う。ジーン・ハックマン演ずるサム・ケイホールは、アメリカ南部に生き続けている人種差別の歴史を背負った人間です。彼がこうした人間になったのは、ある意味では歴史の必然だったのかもしれない。だが、その歴史には誰かが終止符を打たなくてはならない。

 アメリカ社会は、人種差別問題に社会全体で戦ってきた。この映画に描かれているような「家族の中での葛藤や戦い」は、アメリカの中に無数に存在するのでしょう。家族が背負った罪の歴史に、どこで決着をつけ、どんな折り合いをつけて未来に向けて歩んで行くのかは、家族の中でそれぞれが考えて行くしかないのかもしれません。

 映画の中で怪物として登場したサム・ケイホールは、最後に孫や娘の前で、等身大の生きた人間として死ぬことになります。彼が置かれていた状況、彼が負わされた宿命、彼が歩んできた道のり。そんなものを事細かにたどって行くことで、怪物は怪物でなくなるのです。それがこの映画に登場する家族にとっては、自分たちの持つ歴史に対して折り合いをつけるということだった。怪物を殺すことは容易ですが、生身の人間を殺すのは良心が痛みます。サム・ケイホールがどんな人間であったにせよ、それが処刑されたことによる痛みは、家族の中に彼の生きた痕跡として残ることでしょう。

 ジーン・ハックマン、クリス・オドネル、フェイ・ダナウェイらの火花散る名演。ただしこの映画、日本語字幕がこなれてなくて、物語が追いにくいのは問題です。


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