マルタイの女

1997/08/21 イマジカ第1試写室
伊丹十三の『女』シリーズ最新作はプロットにひねりのない凡作。
脚本を書くときにもっと頭を使ってほしい。by K. Hattori



 「暴力団対策法さえあれば、やくざなんて恐くない!」と『ミンボーの女』で大声を出した結果、暴力団に襲撃されて全治数ヶ月の重傷を負った伊丹十三監督が、自身の経験をもとに作った新作映画。前作『スーパーの女』で見せた活劇への復調で、こちらとしてはある程度安心して観ていられるであろうという予断があったのだが、この内容はチトひどい。プロットがそもそもいい加減だし、脚本の細部もメタメタ、演出も大雑把すぎる。役者はいい連中が揃っているのに、それが生かしきれていない。『お葬式』や『マルサの女』以来一貫して続けている「情報映画」としても、満足できない仕上がり。テンポの悪さは決定的で、エピソードの切れ目ごとにつまずくように見えます。アクションの見せ方も、これじゃぜんぜん駄目ですね。とにかく目を覆いたくなるような惨状。ひどく退屈な映画になってます。

 この映画には、映画を成立させるべきダイナミズムが根本的に欠如している。アクション映画の基本は「対立」や「摩擦」であるという根本を、伊丹十三は忘れてしまったのだろうか。殺人事件を目撃した女優をはさんで、それを抹殺しようとするものと、それを命懸けで守ろうとするものの対立。危険を顧みずに証言台に上るか、証言を拒否して安寧な生活に戻るかという心の揺れ。追いつめられて行く犯罪集団と、周囲に守られながら本来の自分を取り戻して行くヒロイン。こうした要素は、この映画の中にまったく見られない。

 例えば、宮本信子扮するヒロインを、二流の女優に設定してみる。時々テレビの2時間ドラマのヒロインを演じ、演歌歌手の座長公演では脇役につき、旅行番組のレポーター役で地方の名物をパクついている女優。本人は非常な努力家で、舞台はもちろん、ダンス、日舞、長唄その他の稽古に余念がない。いつか芽が出るだろうと夢見ながら、このまま埋もれて行く不安も感じている。未婚だが、テレビ局のプロデューサーと不倫の関係。彼は彼女の努力と才能を認め、何とか陽のあたるところで活躍してほしいと願っているが、その反面、売れっ子になって自分から離れていってしまうことにたいする不安も感じている。そんなヒロインが、偶然殺人事件を目撃してしまったら……。

 殺人事件の犯行グループが、オウム真理教を容易に連想させる密教系カルト集団で、犯行も被害者対策の弁護士宅襲撃という芸の無さにも唖然とする。自分の体験をもとにするなら、相手はやくざにしなければならない。それができなかったということは、伊丹十三がやくざの暴力に屈したということでしょう。

 クライマックスの警察車両襲撃場面も、伊丹監督自ら出演した予告編と同じアイデアなのはいただけない。こうした重要なネタバレを、監督が自らやってしまう無神経さには驚いてしまう。こうしたアクションシーンは、どこかで観客を裏切らなければ、観ている甲斐がないではないか。伊丹十三は、一体どうしてしまったんだろう。


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