蘇える金狼

1997/12/17 GAGA試写室
大藪春彦の原作を真木蔵人主演で今の時代に再映画化する理由とは?
企画の方向性が不明瞭で映画のできが弱くなった。by K. Hattori



 大藪春彦の同名原作は、昭和54年に村川透監督・松田優作主演で1度映画化されている。それを再度映画化するからには、前作にはない主旨や趣向を作品に盛り込まなければならない。村川・松田コンビの作品に不満があるからこそ、それを解消するために新しい映画を作るのだという意気込みなしに、なぜ容易なリメイクなどが許せようか。だがこの映画は、こうした観客の期待に応えるものではない。小道具や筋立てに多少の工夫は見られるものの、この映画が平成9年に作られる理由が僕にはさっぱりわからなかった。企画の動機が弱いんだな。

 この映画の前半はわりと面白く観られた。ハイテク装備を駆使して企業の秘密ファイルを盗み出すというアイデアは、アメリカ映画などではよく見るものだけど、日本映画でそれをきちんと絵にして成功した例は少ない。そんな中でこの映画は、小道具や話の組み立てを工夫して、ハッキングからファイル奪取までをスムーズに見せることに成功している。オンラインで可能なことはオンラインで操作させ、物理的な侵入が必要なときは躊躇なく肉体で行動させる点はよく考えてあるし、映像的にもメリハリがきいています。もちろん少しでもコンピュータの知識があれば、おかしいと思う点も多々ある。盗み出した光ディスクをネタに脅迫されている企業の幹部が、光ディスクを返せと迫る場面など「データがコピーされてたら意味ないじゃん」と思ってしまった。ま、このあたりを突込み始めると、この手の映画はきりがなくなってしまいそうだな。今後同様のの映画を作るときは、どうやってコピーを防ぐかというのが課題でしょう。

 主人公の昼の顔と夜の顔の二面性なども、なかなかうまく描けていたと思う。真木蔵人は『傷だらけの天使』的な間抜け面と、殺気をたたえた凶暴な表情をうまく使い分けていた。しかしそんな熱演もむなしく、この映画は、後半になると話がヨレヨレになってきてしまう。これは結局、主人公の犯行動機が弱かったからだと思う。エンディングが尻切れとんぼなのになってしまったのも同じ理由からです。子供時代に空き地に作った秘密基地を、企業の工場建設でつぶされたというエピソードが映画の冒頭にあるけど、その復讐を動機とするにはあまりにも弱すぎる。僕はむしろ「金、金、ひたすら金だ」と有無を言わさぬ迫力が欲しかった。バブル経済が破綻して世の中全体が不景気になっている今、巨悪から金をむしりとる主人子の活躍ぶりに喝采を叫びたいのだ。だがこの映画の作り手に、そうした時代性は見えていない。

 北村康が演ずる主人公の相棒が、キャラクターの掘り下げ不足で扱いが中途半端になったのは残念。主人公の幼なじみだというだけで、危険な犯罪の片棒を担がせるというのでは、説明のはしょりすぎ。彼がどんな生き方をして主人公に合流したのか、彼はどんな目的で犯罪の片棒を担いでいるのか、主人公に対する気持ちはどんなものなのか。こうした背景を少しでも匂わせてくれると、役柄にもふくらみが出てきたと思う。


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