大いなる遺産

1998/02/03 よみうりホール
(完成披露試写)
『リトル・プリンセス』のアルフォンス・キュアロン監督最新作。
ディケンズの原作を現代に翻案した映画だ。by K. Hattori



 1946年にデビッド・リーン監督で映画化されたこともあるチャールズ・ディケンズの小説を、舞台を現代に移し、イーサン・ホークとグウィネス・パルトロウ主演で再映画化したもの。孤児フィネガン(フィン)・ベルの数奇な運命と、彼の幼なじみである、大富豪の姪エステラとの波乱に満ちた恋の顛末を綴る。主人公のモノローグを多用することで、複雑な人物配置をあっさりと説明してしまう、ほとんど手抜きとも思える脚本。主人公以下、ほとんどの人物は行動の動機が不明で、物語は大河ドラマのダイジェスト版のように飛躍が目立ち、説明不足な点も多い。舞台を現代にしているとはいえ、やはり全体に漂う古典としての重苦しさ。物語にも美術デザインにはリアリティがなく、映画全体がフィクションであることがみえみえです。

 しかし、それでもこの映画は傑作だと思う。「それでも」というより、「だからこそ」なのかもしれない。この映画は、最初からリアリズムを狙っていないことが明らかです。僕は一種のファンタジーとして、この映画を観ていた。ロケにせよ、セットにせよ、人物の背景にあるものは芝居の書き割りのように薄っぺら。登場人物たちは、現実の世界を背景に借りて、その上で、普遍的な愛と憎しみのドラマを演じている。よく舞台では、シェイクスピア劇などの古典を、現代劇風の背景やコスチュームで演じることがあります。そうした演出を施すことで、古典劇の中にある普遍的なテーマや人間のドラマが、現代人にかえってストレートに伝わることがあるのでしょう。この映画『大いなる遺産』も、まさにそうした方向を目指した作品だと思うのです。

 ストーリーのレベルで見る限り、登場人物の多くは類型的で、立体感に乏しい者ばかりです。しかしそれが映画の中では、じつに生き生きと動き始める。これは監督の手腕だと思います。この映画を撮ったのは、『リトル・プリンス』でハリウッド入りしたメキシコ人監督、アルフォンソ・キュアロン。僕は『リトル・プリンセス』も大好きなので、今回の映画にも前作と同じような要素を見つけては大喜びしていました。例えば、画面を埋めつくす緑色、物語の始まりを期待させる幻想的な水辺の風景、シュールレアリスティックな美しさを持つセット……、などです。これは監督の個性でしょう。

 しかし今回特に感心したのは、この監督の芝居の演出です。台詞や筋運びで観る限り、どうしようもなくスカスカな内容なのに、画面は瑞々しい映画的魅力をふりまいて、観る者を感動させてしまうのです。例えば、主人公が開いた個展会場に、自分の育ての親とも言うべき姉の元恋人が訪ねてくるシーン。話としてはじつにワンパターンな場面ですし、状況描写には説明不足な点もあるのですが、僕はここで大泣きしてしまった。終盤のデ・ニーロ再登場にも泣ける。泣きながら「なんでこんなスカスカな場面で俺は泣いてるんだろう?」と思い、それでも涙を止めることができなかったのです。

(原題:GREAT EXPECTATIONS)



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